「酒連50年」から「戦前の酒造業界」を抜粋します。
酒造連合会が結成されたのは昭和3年、時の内務部長を初代会長として発足した。大正末から昭和初期にかけては世界的大恐慌で県経済は四苦八苦の状態であった。酒造界の立直しとして、行政指導と業界育成のため、県内務部長が会長職を兼任することとなったのである。
昭和3、4、5年が業界にとっては一番苦しい時期で、多くの酒造所が倒産のやむなきに至った。二代会長は南洋酒造株式会社の平尾喜三郎氏、三代が大城昌貞氏で任期はそれぞれ2年ほどであった。昭和10年8月、大城会長の後を受けて四代会長に私[石川逢篤]、副会長に佐久本政良氏が就任した。昭和10年頃より業界も活況の兆しが見え、12、13、14年にかけて販売拡張のため東京や大阪、福岡などに宣伝隊を繰り出し大々的な泡盛PRをした。
昭和16年に全国統制令が出された頃には、殆ど原料米の購入はなくなり、(略)移出は完全にとだえ、島内需要さえ賄いかねる状態であった。
昭和16年の統制令を機に、沖縄酒類販売会社を設立する。社長に私[石川逢篤]、専務に佐久本政良氏、当間重民氏、取締役に宮城亀寿氏、津嘉山至亀氏、中尾平一郎氏、常任監査役に神谷実徳氏、監査役に崎山英保氏、宮城安一郎氏を選出、原料米購入、販売割当を一括して行い、統制経済下の社会的要請にこたえた。
酒連50年/戦前の酒造業界 石川逢篤 p143、p144(省略と抜粋)戦前の酒造界のようすですが、大正末から昭和にかけての大不況(ソテツ地獄)の影響をくらっているのがわかります。酒連50年にある歴代会長の名前は以下の通りです。
初代(1928〜30) 永田亀作
第2代(1930〜34) 平尾喜三郎
第3代(1934〜36) 大城昌貞
第4代(1936〜50) 石川逢篤
第5代(1950〜51) 花城清用
第6代(1951〜52) 佐久本政良
第7代(1952〜53) 赤嶺恒春
第8代(1953〜57) 山川宗道
第9代(1958〜60) 崎山起松
第10代(1960〜68) 玉那覇有義
第11代(1968〜70) 佐久本政敦
第12代(1970〜72) 崎山起松復帰までを抜出しました。初代は役人、二代目は平尾商店の喜三郎、三代目は那覇市久茂地「美栄泡盛」、四代目は那覇市通堂町「朝日泡盛」、六代目は咲元酒造、八代目は山川酒造、九代目(十二代目)は崎山酒造廠、十代目は瑞穂酒造、十一代目は瑞泉酒造です。
三代目と四代目は「泡盛とともに」を参考にしました。
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_11.html昭和十年代の酒造場がどのような状況だったかを、昭和十二年の『沖縄人名録』でみてみる。当時、那覇市で十五軒、首里で四十八軒、その他本島内には真和志、大里、小禄、北谷に各一軒、名護に三軒の計七軒、宮古に八軒、八重山に十二軒の合計九十軒の泡盛業者があったことがわかる。
また、昭和十二年の『沖縄県人事録』(高嶺朝光編)には、何人かの酒造業者がとりあげられており、それぞれの銘柄が記載されている。たとえば「朝日泡盛」の那覇市通堂町の石川蓬篤氏、「美栄泡盛」の那覇市久茂地の大城昌貞氏、「神泉泡盛」の那覇市上泉町の神元繁宜氏、「喜屋の梅」の首里崎山町の喜屋武幸俊氏、「松藤泡盛」の首里崎山町の崎山起松氏、「咲元泡盛」の首里烏堀町の佐久本政良氏、「太平泡盛」の那覇市垣花町の津波古充章氏、「清水泡盛」の垣花町の仲村清栄氏が銘柄とともに紹介されている。PR