米以外を原料とする酒のことを「酒連50年」から抜粋します。
王府の考え方は「規模帳」といわれる統治の布達事項を示した資料にみえる。それによると、焼酎(=泡盛)を造ることは穀物の浪費になり、上納の妨げ、そま山の荒廃、さらには酒宴による風俗の乱れとなり、ムラの衰微につながるというものであった。そのため、製造及び商売、飲酒は厳重に取り締まることが定められていた。 p27
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いずれにせよ18世紀末から19世紀前半にかけての史料から、宮古や八重山、沖縄本島周辺の久米島、慶良間諸島などでも盛んに泡盛が造られていたことがわかる。p28
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王府の政策上の立場とは反対に、各地での泡盛の密造や販売はあとをたたず、ひどく手を焼いていた。p28
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宮古では(略)自家消費傾向が強かったようである。それにこの酒は米を原料とした泡盛ではなく、甘藷[芋]を原料にした芋焼酎であったことがわかる。地方の酒屋では似たような状況で、甘藷や黍、粟などを原料にした焼酎が造られ、米を原料にした泡盛は地域的にかなり限定されていた。p29、p30
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八重山諸島の離島では自家醸造が大正期まで認められ、自家消費的な酒造が行われた。 p31基本的に穀物を使う酒造りは王府には歓迎されず取締対象です。
米がなくても他の作物(イモ・キビ・アワ)などで製造されたようですから、米以外を原料とした製法も伝わっていたことがわかります。ただし米以外の製造を行っていたのは地方で、現地で製造し消費する自家消費的な小規模生産だったようです。
そして戦後は米軍の余剰米での酒造と米以外での酒造(と密造)になります。
この頃は、米軍の残飯からリンゴなどの果実を採取してドラム缶に入れて発行させ、ワインのような酒や黒糖・分蜜糖、いもなどで焼酎を作って飲んだり、旧日本軍が箒した燃料用アルコールを水割りにして飲んでいた(略)p41
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酒類の需要は官営の5酒造厰では対応できず、自家製(密造)の焼酎(甲類)、合成酒(蒸留した酒に薬品を配合した酒)、雑酒をつくって販売する業者が乱立した。
この頃の酒造業は185工場が創業していたが、蒸留技術や設備も貧弱の上、雑穀を原料としていただけに品質も悪く、また、価格も統一されていなかった。
この頃には酒類の密造業者も乱立、同年[1947]4月には密造業者の一斉取り締まりが断行され、251件の違法業者が検挙された。 p41、p42関連:
グダグダ 官営の酒造所PR