瑞泉酒造のページに佐久本 政敦さんの「泡盛とともに」が掲載されています。「酒連50年史」には書かれていない事情も書かれてありますのでそのあたりを取り上げたいと思います。
戦後の泡盛は外からの酒に押されて衰退してゆきますが、それに対抗するように酒造所は焼酎甲類を製造するようになってゆきます(泡盛は焼酎乙類)。
戦後、アメリカ軍によって、ウイスキーやブランデーなどの洋酒がもたらされ、それまで酒と言えば泡盛しかなかったこの沖縄に、さまざまな酒が出回るようになった。日本製のウイスキーやビールなどはあまり手に入らず、飲み屋では米軍から流れてきたウイスキーばかりが幅をきかしていた。ウイスキーをコーラで割った「コークハイ」が一世を風靡する時代であった。
泡盛は、香りで飲むとされているが、若い層には麹の臭いが鼻につくのか、敬遠される傾向があった。そこで無臭泡盛を一部で試験的に造って販売したところ、予想以上に受けたため、糖蜜を主原料にした甘味のある無臭泡盛の醸造が行われるようになった。なかでも、1960年代の前半に市場の8割を占め、米兵にも飲まれたのが「自鷺」という焼酎甲類である。これはAサインを受けた焼酎で、飲み屋という飲み屋を席巻した。特にコザ署管内では、焼酎甲類の攻勢はすさまじく、20数場あった泡盛業者をわずか数場を残して、転廃業に追い込むほどの勢いだった。
昭和27(1952)年度の酒類製造場は、焼酎甲類1軒、泡盛(焼酎乙類)156軒で、生産量は焼酎甲類が年間180キロリットル、泡盛(焼酎乙類)2500キロリットルの計2680キロリットルで、圧倒的に泡盛(焼酎乙類)の生産量が多かった。それが昭和38(1963)年度になると、焼酎甲類が3568キロリットルに対して、泡盛(焼酎乙類)3444キロリットルと、ほとんど同量の生産高を示すほどに、甲類の需要・供給が増えていた。
昭和28(1953)年度から昭和32(1958)年度の五年間は、特に合成清酒と雑酒(ポートワイン類)の伸びた時代で、年間約4000キロリットルの生産があった。このため、泡盛業者の多くが合成清酒又は雑種の免許を受け、泡盛(焼酎乙類)を原料とした合成清酒や雑酒を製造していた。
昭和37(1962)年の酒造組合名簿、商標一覧を見てみると、当時の銘柄の中には「ゴールデンウイスキー」や「タカラソフトワイン」、「ラムスイート」「ラッキーワイン」「スロージン」というカタカナの洋酒の銘柄が並んでいる。
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_31.htmlこれはライフスタイルの変化もあると思うんですよね。
チューカーから小さな杯にいれてストレートでちびちび飲むというのはほぼ廃れました。深夜の飲屋でガバガバあおるように飲むには味のしっかりしている酒は向いていなかったのでしょう。
ここではさらっと触れる程度にしたいので興味のある方は生産量等のデータもある「酒連50年史」を参照して頂きたい。当時の生産量や背景等も同時に読まないと詳細なことはわからないうえ、泡盛業界だけの話では全体がわかりにくいです。
酒造組合名簿からあげられた名前を抜出します。
12.琉球酒造株式会社/新世代・ゴールデンウイスキー/那覇市字繁多川
32.仲順酒造場/宝船・タカラソフトワイン/浦添村字仲間
39.三光洋酒株式会社/Rumsweet・三光/浦添市字牧港
42.中央醸造化学研究所/ラッキーワイン・スロージン・乙姫/宜野湾村字大山甲類の「自鷺」は「合資会社諸見里酒造工場」のようです。
51.合資会社諸見里酒造工場/白鷺・富士/具志川村字喜屋武 検索すると消滅して復活したようですね(
諸見里酒造工場 - Google 検索)。
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