戦後那覇港が米軍港として占拠され、泊港は未整備のため、安謝港が脚光を浴びた。
水深は浅いが、奄美大島から貨物船が往来するようになり、さびしい漁村だった安謝は急速に町として開けてきた。トンネル通り沿いに安謝市場があり、海岸通りには各商店・旅館・劇場・食堂・料亭・飲み屋が軒を連ね、大島産木材、米・家畜取引の中心地となった。
波止場には大島船船取り扱い事務所・安謝港仲仕組合・共進組の海運業や、沖縄造船・松田造船の造船所があり、アプレの港町として栄えた。
戦後の沖縄世相史 p371949(昭和24)年の記述ですが、これを了解するためにはすこし注約がいるかもしれません。
岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275安謝部落は安謝小学校周辺が本来の部落で58号線から向こう側にはあまり人は住んでいませんでした。
参考:
グダグダ 安謝の原名(西側)参考:
グダグダ 安謝のトンネル最初の引用で示したように那覇港が使えず泊港も造成が済んでいないため那覇の港として脚光を浴びました。また岡野・住吉の両区も戦後すぐに住み始めているため復興は早く、安謝誌にはトンネル通りがいかに賑わっていたかというのが出て来ます。
現在埋め立てられた曙あたりの海岸線には昭和中期の地図でも造船所が確認できます。
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