立ち入り制限の続き。
抜き書きしてあったノートから立ち入り制限関係を書き留めておきます。
1947年
1月 寄宮十字路の東側一帯と安謝部落に居住許す1950年
2月 栄町誕生
1953年
10月 国際通りの起工1954年
1月 泊埋め立て地落成
壺川、久茂地、若狭の軍用地2.4万坪解放
具志、宮城両部落の軍用地一部解放
4月 辻町の一部解放
1955年
5月 前島町の軍用地5万坪解放
6月 旧泊、古島区2.4万坪解放
1956年
2月 与儀公園落成
4月 泊二丁目解放
1957年
漫湖5万坪埋め立て那覇の立ち入り制限になぜ埋め立て地のことも書いたかというと当時の立ち入り制限地域の多さと土地不足をかなり救ったんではないかと感じるようになったからです。
過去記事の
みなと村に55年当時のみなと村の写真があって
■、それは開南小学校付近から漫湖方面を望むものなんですが更地にコンセットが立ち並ぶものなんですね。当時の58号線付近の写真をみてみると海側(松山、若狭)に何も無いのに対して反対側の国際通り側はすでに市街地化が進んでいます。海側の何も無い少し異様な風景はみなと村からコンセットを取り除いたような風景ですが、その軍用地から1マイル以内は立ち入り制限があるので使える土地面積はさらに減ってしまいます。
那覇(と真和志)で土地が不足する一方土地返還の予定が立たない状況では使用可能な土地の最大有効活用として埋め立てを考えるのは行政として当然のことだと思います。
那覇中学校あたりの道路はきっちり碁盤目になっていますがこれは返還の前にきっちり開発計画が練られたおかげです。主に真和志地区ですが、計画性の無い復興のおかげでスプロールを起こしてしまっている地域と少し住民が落ち着いてから開発された地域との差は激しいです。
しかし開発計画が戦前の道路と違う形で計画されてしまったため東町あたりの旧跡を尋ねる時には道路を当てにすることが全く不可能です(表示はされてるんですが)。
現在昭和中期の建築物が取り壊し時期に来ているのでそのスプロールも解消されようとしていますが、しばらくしたら資料でしか辿れない風景が増えるんでしょうね。しょうがないことではありますが...
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