与儀について抜き書きしておきます。
与儀の地は泉崎湧田に住むものからは「ユージ・クヮングヮ」の併称で知られているだけにそれほど遠い田舎の感じは無く、また実際に毎日の生活物資の供給地でもあった。湧田ヌサチをではずれると古波蔵馬ィー、その馬場をまっすぐ通り抜けて坂を下りてやっと道<後の鉄路>に出てそれを横切って村らしい雰囲気になるところが与儀だった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p498県庁付近から城岳小学校(側に馬場跡も残っています)側を抜け坂道を下り330号線(
元鉄道路線)を横切ったあたりの集落が与儀だったということですね。
与儀の本家筋はナナムートゥとて七軒あって現在も同様に繁栄している。
イー(ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)
ウフ アガリ<宮城>
ウフ イリ<城間>
ウドゥンヤー<城間 大東[ウフアガリ]の分家>
ウフンミ<大嶺>
シリー<城間>
シチャナーカ<島袋>
那覇市史資料編第二巻中の7、p499「ウフ イリ」は大西、ウフンミはそのまんま大嶺ですね。与儀巫殿内(ユージヌンドゥンチ)の屋号のイーは上の意でラキブチは竹葺きのことのようです。
与儀は那覇市内にも関わらず拝所がわりと残っていて祭祀も行われているようです。
ここでは省略しますが那覇市史では続いて各家における祭祀と与儀の拝所について書かれていて、家での祭祀対象に関帝がある家がある。
土帝君や関帝、あるいは天妃(媽祖)などもそうですがいつのまにか本来の信仰理由から離れてしまうのも沖縄らしくて面白い。
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