

真和志民俗地図では与那覇堂村は真和志村の範囲になっていますが明治12年に首里山川村に編入されているようです。首里民俗地図を見ると山川村との境界はすべて道になっているようなので道筋が現存するなら境界線もはっきりできるかと思います。
以下抜粋引用します。
与那覇堂村
首里城の西、首里台地の西端部に位置し、東は大鈍川村(ウドゥニガームラ)、西は真和志間切茶湯崎村(松川村)、北は真和志間切真嘉比村。真和志之平等のうち。ユナファドーと呼ぶ。
「球陽」尚貞王4(1672)年に初めて真和志郡与那覇堂村を首里府に所属させたとある。首里古地図では(略)の屋敷地のほか、北・西の真嘉比川沿いに畠・田が広がっている。畠は屋敷地の北と西に広いが、他は真嘉比川沿いにまとまっている。北西部には「鳥頭」「はるおかみ」と記された二つの丘が見える。
文化12(1815)年の士族の家部26(琉球一件帳)。
明治12(1879)年大鈍川とともに山川村に編入。
角川辞典 p113(省略と編集)首里民俗地図は昭和初期を想定しているので大鈍川村の名前はありません。
しかし山川村の範囲内で下記引用の条件に合致する山川村の西部が大鈍川村の範囲だとおもわれます。首里の歴史本を調べればでてくるかとは思いますが当ブログの範囲外なので調べません。
大鈍川村(ウドゥニガームラ)
首里城の北西、首里台地の西斜面に立地し、北から東は山川村・真和志村、西は与那覇堂村、南は寒水川村(スンガームラ)。ウドゥニガーあるいはウドゥンガーと呼ぶ。
文化12(1815)年の士族の家部50(琉球一件帳)。
明治12(1879)年与那覇堂村とともに山川村に編入。
角川辞典 p113(省略と編集)PR