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天久の屋取 2

天久の屋取の続きです。承前。
グダグダ 天久村の御嶽
グダグダ 安里初等学校
天久の屋取
天久の御嶽の位置を参考に部落の大体の範囲を天久誌の集落図でいい加減にマッピング。
南の部落入り口が「前の池」、北が「西の池」、東が「闘牛場」の範囲です。天久誌の部落図はこの範囲となっていますが真和志民俗地図を見ると東原に集落の記号、そして天久村の御嶽で参考にした「那覇新都心物語」では外れに平野(ひらの)という表示があります。

天久の屋取部落は東原の低湿地帯に沿うように10世帯余りが存在し、東原一帯に水田、現在の泊浄水場北の丘のふもと一帯を開墾し畑作を行っていたという。
天久誌 p91

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


本部落の周辺に屋取ができるという良い例ではないでしょうか。
しかし天久誌の部落図で屋取がまったく触れられていないってのはやはり寄留民との垣根は高かったんだろうなというのを考えさせられます。特に天久は戦後間もなくバラバラになってしまっているのでしょうがないのかもしれませんけども。

参考:天久の地縁 3(平野区)
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