戦後の漆器工房として名声のたかかった紅房(べんぼう)は残念ながら2001年に廃業しています。
紅房に関係するサイトをいくつか引用してみます。
日本の漆器技術の発展に尽力し、職人の社会的地位の向上に寄与した生駒弘氏を父に持つ故生駒親雄氏が、昭和25年、秋田市に「生駒漆芸工房」を開きました。沖縄の琉球漆芸に大きな可能性を感じた生駒弘氏は、自ら沖縄に渡り、当時社会的地位の低かった琉球漆工芸の職能向上に努め、現在の琉球漆工芸産業に多大な功績を残しました。父弘氏の技術は子親雄氏に受け継がれ、当時の伝統性の薄かった秋田市に定着した生駒塗には、沖縄で培われた鮮やかな朱塗りの遺伝子を宿し、伝統にとらわれない新しい造形感覚をみることができます。
http://akita-zurali.jp/html/newpage.html?code=19なんと大胆で簡潔なフォルムでしょう。写真の二つの作品は、柏崎 栄助(かしわざき えいすけ)(1910〜86)というデザイナーによるデザインで、一方は戦前戦後の琉球漆器をリードした「紅房(べんぼう)」という会社でつくられました。戦前のものとは思えないほどモダンですね。
柏崎は沖縄県工業指導所の漆工部技師だった生駒 弘(いこま ひろし)の親戚で、東京美術学校(現東京藝術大学)図案科の学生だった頃から沖縄へ来て、デザインの仕事をしていました。生駒は昭和6年(1931)沖縄漆工芸組合を結成。「紅房」というブランド名で全国に販路を拡げていきました。従来の漆器の概念を打ち破る斬新なデザインは、とても評価が高く、他の産地に大きく差をつけていたのです。
http://ogb.go.jp/move/densan/minikowa.htm漆器の生産といえば若狭町ですがこのようなエピソードもあったようです。
昭和初期、沖縄県は「ソテツ地獄」とよばれた経済不況対策の一環として、県工芸指導所を立ち上げた。漆器部門の指導者として生駒宏が富山県から招かれた。(略)県外から優秀な若手デザイナーを呼び寄せ、近代的な感覚の製品開発に取り組んだ。その結果県外からの引き合いも出て来た。
それに対し、伝統的な漆器業者は民業圧迫だと騒ぎ出し、若狭町の街角に「イコマ(生駒)ではなく、悪魔だ」との張り紙をする一方、県や県議会にまで押し掛けた。
昭和6(1931)年、生駒は既存業者を排斥し、沖縄の漆器に新しい息吹を与えることを決意し「沖縄漆器工芸組合・紅房」を発足させた。そこには柏崎英助、小池岩太郎らの若手の有望な人材も加わり、現代にも通用する新しいデザインが次々と生まれ、中央でも脚光を浴びるようになった。
笑う!うちなー人物記 p193(編集と引用)左はわかさ民俗地図による漆器関係、右は昭和の那覇市内の観光向け案内図です。


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