終戦後の市街地の発展には立ち入り制限の段階解除が尾を引いています。
その辺と土地を巡るあれこれを那覇市のpdfから抜き書きしておきます。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/pr/youran/2006pdf/nsy2006_II-5.pdf1945 年(昭和 20 年)
•陶器と瓦工業復興の目的で男子先遣隊 103 人が壺屋町に入市(11 月 10 日)
1946 年(昭和 21 年)
•小禄、真和志への住民移動許可
1947 年(昭和 22 年)
•奥武山を中心とするペリー、壺川、楚辺、松尾一帯に那覇とは別の行政区みなと村を設置
1950 年(昭和 25 年)
•みなと村、那覇市に合併•米軍、天久、上之屋一帯の立退を命令1951 年(昭和 26 年)
•東町開放
1952 年(昭和 27 年)
•壺川、若狭町の一部開放
1953 年(昭和 28 年)
•若狭町の一部と旧西新町 2 ・3 丁目開放
1954 年(昭和 29 年)
•旧高橋町一部、旧泊小学校開放
•首里、小禄を合併
1955 年(昭和 30 年)
•松下町開放
•真和志市を那覇市に合併
1972 年(昭和 47 年)
•与儀ガソリンタンクの撤去作業開始
1983 年(昭和 58 年)
•小禄金城地区区画整理事業計画決定
1986 年(昭和 61 年)
•天久米軍用地牧港住宅地区全面返還元のpdfをみてくとわかるんですが東町あたりは軍がつかっていて立ち入り禁止だったようなんですね。うろ覚えですが前島辺りも軍がいて立ち入り禁止だったはずです。
那覇市役所も牧志公設市場敷地、開南、牧志町(4 区)、天妃小学校、現在と移転しています。
そしてその後の大きな変化は復帰を機会とした与儀ガスタンク、小禄、現新都心区域の返還まで待つ事になります。
PR