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クヮンチェーバク(棺箱)

タカラムンともいう。寸法は唐尺にあてて作った。七分の杉板を用いて作った。洗骨の早いのは、この板を利用してクェーワキー(肥桶)を作った。年寄りのいる家では前もって用意しておき天井にあげておいた。
那覇市泊では、大正時代に大城のハクヤーがあって、タカラムンツクヤーが白布と枕もつけて二円五十銭であった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636


以前ドウグヮーと鉦打ちで葬儀について触れました。浦添の内間誌の記述からですが上之屋に棺桶を買いにゆくという話がありました。

ダビ一切の面倒を見る。棺桶を買いに行く人(上之屋にあった)。
内間誌 p73

[上之屋には]その他特殊な職業としてクヮンチェーバク(柩)ツクヤーがあった。
上之屋誌 p44


那覇市史では泊で棺桶作りをしていた人間がいたこと、内間誌では上之屋に棺桶を売っていた人間がいたことがわかります。「ハクヤー」は「箱屋」でしょうか。
上之屋は以下のような部落です。

天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39


薪などの水揚げ場所であった泊港の北が交通の要所となり、近くに市場もでき居住者も増え独立した字となったというのが上之屋であったようです。また隣接する泊の新屋敷も新しい時代の居住区域です。
想像でしかないのですが、上之屋に住むようになったのは古くからの仕事を持たないような(都市のスタイルを持った)住民で、泊新屋敷に住むようになった人達とは似たような境遇だったのではないでしょうか。那覇市史での「大城のハクヤー」もそのような人であったのではないかと思います。

関連:グダグダ(β) クヮンチェーバク(棺箱) 2
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