那覇市の字、旧真和志市に属する。1946年(S21)、字与儀宮城原(あざよぎみやぎばる)、字国場寄増原(あざこくばよせましばる)、洗田原(あらいたばる)の3小字で成立。寄増原の<寄>、宮城原の<宮>をとり寄宮とした。
元農業試験場跡地(1961年首里に移転)に知事校舎、与儀公園、市民会館 etcがある。人口が増大してからの地名ですがこの地名が昭和21年に成立したというのも事情を物語っています。
wikipediaの那覇市から抜粋します。
1945年(昭和20年): 太平洋戦争での空襲および陸上戦(沖縄戦)により街が壊滅。首里城も破壊された。米軍の全面占領下となり、立入禁止に。
1945年(昭和20年)11月: 産業復興を名目として陶器製造産業先遺隊が壺屋へ入る。
1946年(昭和21年)1月3日: 糸満地区管内壺屋区役所が設置され、復興が本格化。その後、民政府などの中央機関が那覇へ移転。
1949年(昭和24年)12月9日: 米軍政官が「那覇を沖縄の首都とする」と発表。
こんな経緯ですから住居を求めての那覇市内の急激な人口増がわかるかと思います。無計画な居住開始ですから道が入り組んでて古い家が多く迷路のようです。
地図を見てみると
寄増原---真和志小学校の後ろのあたり、宮城原---寄宮2丁目付近、洗田原---寄宮十字路の国場側付近 です。
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