51年の土地評価(割当地 2)では割当地の等級を見て51年当時の商業中心地を考察する準備でした。
書かれている店舗の位置がわからず区割りもいまのところはっきりしませんが(笑)とりあえず推察できるところから考えてみます。図の参考にしたのは「那覇市地図(S26)」、市場の位置はゼンリン地図からです。
まず唯一の一等である
「市場通り入り口(一区十四組友寄商店より沖陶社前までの通りに面せる両側)」。ここは1区14組が現在の平和通りの国際通り側入り口であることから大体の場所がわかります。
二等。
「民衆百貨店より丸国マーケット十字路及西方へ右折し(ry」はわかりません。「那覇市地図(S26)」では商業店舗名は大洋劇場周辺と映画館・劇場を除いては図で?付きで表示した位置に○○デパートしかありません。字が潰れてしまっていて○○の部分がわからないのですが漢字二文字であるのはたしかなようなのでここが民衆百貨店(デパート)ではないかと推定します。推定しても残りはわかりませんのでどうしようもありません(笑)。
「栄橋より共和商会まで」「栄橋より川沿い千歳橋まで」は栄橋を中心とした通りのどれかでしょう。
三等。
「1区鉢嶺時計店より沖縄バスまでの両側」は国際通りの現三越前付近。
「三共デパート路地三通路(一等地の通りを除く)」は丸国後方ではないかと根拠はないけど推定します。
「果物市場次より新栄橋までの両側」はそのまんまですね。四等
「新田家具店より開南売店迄の両側」は新栄通りそのまんま。
「琉銀支店より青バス前十字路までの両側」は国際通りの沖バスからどこかってことでしょうか。
「丸国マーケットよりローズ写真館十字路までの両側(四等)」と
「神里原ローズ写真館の次ぎより丸金デパートまでの両側(三等)」というのがありますがローズ写真館がわかりません。この二つを総合してみると、
<ローズ写真館は丸国より直線で結ばれた十字路にあり><ローズ写真館次ぎから丸金デパートまでは道がある>ということになります。51年時点では開南から農連方向(大洋劇場)に向かう道はありませんからそれを考えていくつか考えられると思います。
琉銀支店より青バス前十字路までの両側(四等)青バスですがこういう記述があります。
戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、50 - 51年には14社(沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バス、あらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運)が乱立。
うち8社の合併や買収などで誕生した昭和バス株式会社と青バス株式会社が合併し1964年7月に琉球バス交通の前身である琉球バス株式会社が発足した。
琉球バス交通 - Wikipedia50か51年に発足した青バスは1964年に他社との合併によって琉球バスになったということですね。しかし国際通りに少し前迄あったバスターミナルと青バスの関係、さらにそこが青バス前十字路なのかということも不明では何ともいえません。こういう記述もあります。
■>1955年にはバスターミナルが統合建設され(略)幹線は牧志を中心とする国際通りに移転し(略)商業の中心地も国際通りに移っていった。国際通りのターミナル建設は55年でリウボウ・山形屋の移転もそのあたりです。今回の割当地評価と図は51年なので時期がずれます。「青バス前十字路」の場所が特定できればいろいろとはっきりするんだろうけど...
今回の結論は51年当時の高評価割当地のはほぼガーブ川周辺になるということです。頻出する単語は栄橋、丸国マーケットで、そこからどこどこへという感じですからその辺りと市場が栄えていたんだろうなということが推定できます。
戦後史としてよく語られている事実を再確認しただけですわな(笑)。
PR