みなと村は戦後復興のため一時期存在していた行政地域です。
那覇港の荷役作業を請け負っていた「那覇港湾作業隊」の労務管理を円滑にすることを目的として沖縄民政府が設置した極めて特異な自治体である。村長は那覇港湾作業隊総支配人の國場幸太郎が就任し、村職員の大半が那覇港湾作業隊の関係者で占められていた。(那覇港湾作業隊との兼務が許されていた。)
那覇市のほぼ中央、那覇港と漫湖にはさまれるように位置していた。現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
那覇市港町は、1970年代になって付けられた町名であり、無関係である。
みなと村 - Wikipedia2000年5月13日付け琉球新報から引用します。
「みなと村」初めて地図に/那覇市議会史 - 琉球新報
このほど発刊された那覇市議会史第五巻「アメリカ統治期(合併前)」の中で、1950年8月に那覇市に合併した「みなと村」の行政区域が初めて地図になった。(略)
「みなと村」は47年5月、戦後引き揚げたPOW(日本軍捕虜)の業務を引き継いだ民間の那覇港湾作業隊の作業能率を上げようと、沖縄民政府知事によって設置された特別な自治体。那覇市に合併されるまで3年三カ月存続した。(略)
今回、発行された議会史には那覇市とみなと村の合併、さらに真和志村との合併をめぐる白熱した審議の様子もうかがえる。50年4月にみなと村議会が那覇市への合併を全会一致で可決した後、那覇市との合併をめぐって同7月に開かれた真和志村臨時議会では、「みなと村は真和志の土地を利用した特殊区域である。(中略)…、これは真和志村を首都計画からオミットして、みなと村だけを取らんとする陰謀と考えられる。一市二村を合併し、首都建設することには賛成。ただ、みなと村だけの編入は絶対阻止すべきだ」などとする発言もあり、一市二村の合併条件として「みなと村の大半は戦前の真和志村の行政地区。みなと村の解消と同時に、旧真和志村地域は返還せられたい」などの項目が挙がっている。
琉球新報 2000.5.131957年に真和志市は合併消滅しますが那覇との合併を巡るゴタゴタが見えて面白いです。当時の那覇市広報の「市民の友」などを読むとその辺の駆け引きがうかがえます。
首里は地名に首里をつけることにこだわったし、地域ごとの微妙な意識の違いや、首里・那覇への(微妙な)反感ってのはなんとなく存在してますよね。
1955年のみなと村遠景。
開南小校−ハーバービューを通して漫湖をのぞむ ※旭橋都市再開発株式会社 http://www.asahibashi.jp/area-6.htmlからお借りしています。しかし戦後10年経った1955年でも現在の旭町周辺は市街地化してないんですよねぇ...
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