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球陽堂

球陽堂を「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」(以下国際通り物語)を参考にしてまとめてみます。
国際ショッピングセンター建設以前の球陽堂はこんな感じで、それ以前は松尾の現山城時計店向いにあったようです。

創業者の山田親度さんは1901(明治34)年に松下町で生まれ、師範学校を出て長らく北部で教職に就き、戦時中は喜如嘉国民学校校長です。
本好きの山田はたくさんの本を買っては大切に保存していた。北部で教職についていたおかげで山田は生き長らえた。しかも、戦後、山田が書店を経営する元になった多くの蔵書は、国民学校の校長舎宅に一冊も失われずに残っていたのである。
国際通り物語 p78(抜粋と編集)

この本がのちの元手になります。
終戦後はCP(シビリアンポリス)になるが、元教職ということで1946年に田井等高等学校辺土名分校(英語教師)、翌年奥間初等学校校長に就任しますが1948(昭和23)年4月退職し那覇へ移動。
那覇では宮里辰雄(琉貿社長)と友人関係にあった山田親徳(叔父)に頼み込んで7月に設立されたばかりの琉球貿易株式会社に就職。しかし半年程で退職し貸本屋を始めます。
自分の蔵書が有効に活用できる。一石二鳥だ、と山田は思った。本棚には戦災をまぬがれた『日本文学全集』など、60冊の本がいっぱい飾られた。貸本料金は1冊2銭にした。こうして貸本屋「山田書店」が誕生したのである。
p81
---
琉貿を辞めて半年後。1949(昭和23)年7月7日、松尾でトタン屋根5坪(店の部分はわずか1.5坪)の小屋を建てて、貸本屋を始めた。大黒屋(現在の山城時計店付近)の斜め向い側、松尾街道(国際通り)から少し現在の八汐荘側に入った辺りである。松尾街道に面した所は低い土手があったため、家は建てられなかった。
p80
国際通り物語 (抜粋と編集)

松尾が商売的にはいまいちのため移転を考えていた頃、宮里が訪れ本屋(貸本屋?)をやりたいと言われます。山田も移転を機に貸本屋から書店へ切り替えたいと思っていたようですが、山田は宮里来訪の際には琉貿社長が貸本屋に加わることに否定的で、その時にはいずれ本屋をやる時に加勢してくれということで話は終わったようです。
そして移転地を探す山田は大城鎌吉の土地が売りに出されているのを知り、宮里と叔父に書店の共同経営も持ちかけ同意を得ますが、土地販売がまとまらず没。別候補の牧志郵便局付近の売地はすぐ近くに書店(幸地書店)があったため没。
山田書店の客だった久高将信(久高木材店縁者)に良い土地がないか聞いてみたところ、久高木材店向いが売りに出ていることを知り3人は購入を決定。この土地が冒頭写真の位置で、後の国際ショッピングセンターとなります。
1949(昭和24)年12月に4坪の店舗としてスタート、「球陽堂」という名称は宮里の案。
しかし半年程後にゴタゴタがあり3人体制を解消し1人でやることになる。経営は順調で、その後8坪、11坪と店舗を拡大し、1972(昭和47)年の国際ショッピングセンター建設の時には一階72坪(売り場面積60坪)、2階専門書コーナーは(40坪)の広さになる。
山田親度さんは1985(昭和60)年に85歳で没します。

没後は長男(親夫/琉大教授)が大学を辞めて後継。
国際ショッピングセンター建て替え計画(後に頓挫する)があったため1990年12月に沖映通りに本店(6階建て)をオープン。1996年国際ショッピングセンター店を拡張し、沖映通りの本店を閉じて統合。

ここまでが1998年1月発行の「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」の内容をまとめたものになります。この後の話になるのかもしれませんが牧志市外バス停付近にあった2階建ての店舗も自分は覚えています。
国際ショッピングセンター閉店と新都心での開店の時系列などはよくわかりませんが、このブログはだいたい復帰あたりまでをターゲットにしてるのでこれくらいで終わっておきます。
最近球陽堂買収のニュースがありました(2012.08.18)。

全国で書店運営を手掛けるくまざわ(東京都、熊沢真社長)が、球陽堂書房(那覇市、山田親夫社長)を買収し、営業を引き継ぐことが17日、分かった。くまざわは新会社の球陽堂(那覇市)を3日に設立。今後、同社が球陽堂書房を吸収し、資産、約32人の従業員と業務を引き継ぐ。県内にある2店舗、書店名も継続。9月16日から新会社が営業する。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-08-18_37895


個人的にも球陽堂にはお世話になりました。
改めて感謝申し上げると共に歴史も記憶しておきたいと思います。
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Comment

無題

  • zu2
  • 2012-09-10 00:02
  • edit
球陽堂には私もお世話になったので、記録を残しておきたいのですが、あいにく写真等がほとんどないのですよねえ。

国際ショッピングセンターに戻ったあと、牧志バス停に移転。そのあとでメインプレイス移転という流れのはずです。

西原店もありましたが、私は数回しかいってなくて詳しいことは覚えておりません。

Re:無題

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-09-10 18:20
>国際ショッピングセンターに戻ったあと、牧志バス停に移転。そのあとでメインプレイス移転という流れのはずです。

牧志バス停の店舗はショッピングセンターの本店が移転してたのですか。
具体的な移転日時を調べるのは力技しか思いつかなくて躊躇しています。月単位くらいまで絞り込めたら新聞や雑誌の検索もできるのですが...
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