明治5年東町生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
他シマとの競争意識について。
こうして流し歩くうちに他シマの舟とすれちがうことがある。相手になるのは大抵は西町だがそれとわかると近づけてチヂンを打ち鳴らし歌を掛け噂や評判の相手に悪態をつきひとしきりわめき合う。どっちかが答に窮して返歌が口をついて出なかったりいい負けたりすると言葉争いは事面倒だとばかりに、もう相当に頭にきてカッカしているから、いきなりお椀で潮を相手にぶっかける。相手も心得てそれとばかりに両方から浴びせる。中には棹をもち出すのもいる。お互いにびっしょりべとべとになって、いわゆるミジブニ(水舟)にして引き揚げる。時にはつられて船頭同士の喧嘩になることもある。東と西、久茂地と譜嘉地のように伝統的な仇敵がどこにもある。しかし遠慮して黙っているとやはり意気地なしとみておかまいなしに潮を浴びせる。好んでするものではないがはずみがつくととんでもないことになってしまう。
(中略)
泉崎と湧田はタナカ小路を挟んで両方が立ってチヂンを叩いて張り合った。うっかり見にいこうものなら掛歌の的になってしまうから、こわいもの見たさで遠くから見ていた。
〽井口グヮーヌ アンマーヤ ヌーサル アンマーガ マササルン アラン 井口グヮーヌ アンマーヤ クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ
(井口さんの母さんはどれほどの母さんか、霊験があるでもなし殺しておけひねっておけ)
さしもの井口家の奥さんも歌にかけられてはやされ歌われた。道幅も二間そこそこの狭い所だからすぐ見つかってしまう。
久茂地と泉崎が久茂地川を挟んでカーラバンタで、久茂地はアガリヌサチ、泉崎は甲辰校側に立って喧嘩していた。時には男の子がイッシンバーエーで石の投げ合いをしていた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P710(抜粋と編集)下泉が泉崎で上泉が湧田、
久茂地大通りを境にして川側が譜嘉地です。
シマごとの対抗意識は結構なものだったようで、安里育ちの古波蔵保好さんの本にも石合戦や喧嘩などの思い出が書いてあったかと記憶します。小さなシマではあるんですが文化がけっこう違いますから相容れないものがあるんでしょうね...
井口さんの奥さんをはやした歌は怖い内容のようですが「クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ」という韻を踏んだ言葉を使いたかっただけのように思えます。「クルス(クルチ)」という言葉は標準語にするとどうにも物騒でいけません...
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