
少し前に発行された上間誌の「昭和初期の上間本部落民俗地図」を参考にして作成しました。
上間は古い集落ですが驚くことに集落内の道筋がほとんど変化していません。
また拝所もほとんど残っていますし周囲の地形もあまり変化していません。村クムイも水をたたえています。
「上間集落=当り原」といっていいくらいで範囲は拝所がある外周を囲んだくらい、そして上の識名原に高台が続く以外は周囲の淵下原や山川原は急坂やハンタ(崖)で区切られれています。
真和志小学校から登って来る坂が180度のターンをする場所の突き当たりが番所跡です。
番所と役所の移動について国場誌から引用します。
上間村の入り口(字上間一番地)に古風豊かな建物があった。これが真和志間切の行政を司る番所である。番所はバンジョと読み方言ではバンジュと響き、通例所在地の村名を以て呼ばれていた。 p95
真和志小学校は明治13年3月、上間番所の下知役詰所で開校した。 p103
間切時代から上間村一番地にあった当時の役場庁舎は、古色蒼然、腐朽甚だしく何らかの地頭代時代に建ってから二百年を経過するといわれた時代物である。しかも古波蔵から一里、安謝村から一里半、真和志の南の端の誠に地の利を得ない丘の上にあった。道路も未完成で小さな農道を山越え川越えして大変不便であった。
(略)
大正15年現在の真和志支所の地に約80坪のペンキ塗り瀟酒な庁舎を建て移転した。 p121
※引用元はすべて国場誌最後の121ページの引用は国場誌も他の文章から引用していますが字誌の編集者が不便だとか地の利を得ないとか書けないですからね(笑)。
上間誌は上間・具志堅問題(笑)やシイマのウタキ、あと安謝名子とかにも言及していますが結論は出ないでしょうね。
参考:地名 併称 沖縄 - Google 検索厚手のでかい本で読みやすくわかりやすいあたりに歴史を伝えなければという熱意が感じられました。面白い話も拾えたのでおいおい書いていきたいと思います。
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