新垣平尾バスの新垣義堅さんです。沖縄大百科事典からまとめます。
新垣義堅
1898(明治31)年国頭間切辺戸生、1965(昭和40)年没。
国頭尋常高等小学校卒業後上京し自動車学校入学。帰郷後沖縄自動車に運転手として就職し、1923年金城清松らの後援を得てあらかき自動車商会を設立。34年に南陽自動車商会、38年に朝日自動車商会を吸収合併。39年に統制令によって平尾バスと合併し新垣平尾バスとなり、その専務に就任。バスだけでなくタクシー部門(あらかきタクシー)も設置、その後満州でもタクシー会社を経営する。新垣平尾バスについて。
新垣バス(1923年設立)と平尾バス(1923年設立)が統制令により1939年新垣平尾バスが設立、那覇名護間を運行する。
沖縄戦で壊滅的な打撃を受けるが戦後再建、54(昭和29)年に昭和バス(現琉球バス)に合併されるまで営業した。戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、1950年 - 1951年には14社(*1)が乱立。
うち8社の合併や買収などで誕生した昭和バス株式会社と青バス株式会社が合併し1964年7月に琉球バス交通の前身である琉球バス株式会社が発足した。
※沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バス、あらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運
琉球バス交通 - Wikipedia新垣平尾バスは戦後復活したけども1954(昭和29)年に昭和バスに合併され、その昭和バスも1964(昭和39)年に琉球バスに合併されたという流れのようです。
ですが
沖縄協同バス株式会社で扱った「沖縄実業と文化人名録」では「取締役社長 平尾喜一、専務取締役 新垣義堅」となっていてよくわからんとこです。また沖縄実業と文化人名録は発行年がはっきりしません(50年代の初期なのは確か)。
【追記】1950年の琉球人事興信録から抜粋します。
新垣義堅
協和旅館経営 沖縄協同バス専務
戦前新垣バスと言へば知らざる者なし沖縄流通業を掌握し実業界に君臨して其の名を馳せたる新垣義堅氏は明治32年国頭村字宜名真に生る。郷学を卒へるや決する所ありて出覇、金城内科医院に勤務したるも将来自動車職の有望なるに着眼し、之が経営を志し上阪して自動車学校に入り運転の技術を習得して帰県、沖縄自動車商会に勤務し大正12年独立して新垣自動車商会を開設し事業隆々として向上の一途を辿り沖縄交通業界の異彩として県下を風びし盛業を極めたるも終戦となり休止の止むなきに至る。されど氏の才能は凡庸の及ぶ所に非ず虎視眈々機の至るのをまち大成するものとして逸す可からざる人材なり。1946年協和旅館を設立するや腕にものを言はせて隆々たる盛業振りを示し1950年1月いよいよ沖縄協同バス株式会社設立し、交通業界の権威者たらんと氏の将来期してまつべし。
琉球人事興信録 1950(抜粋と編集)関連:
グダグダ(β) 白山療養園 (金城清松/金城内科医院)
参考:
グダグダ(β) 千歳橋通り/浮島通り(50年代初期) (協和旅館)
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