廃藩置県で専売制が導入されていますが自家製煙草は身近なものだったようです。
もっと面白かったのは、彼らの飲んでいるタバコはみんな自家製なのでした。農家の家の裏に行くと、どの家の軒下にも煙草草がかげ干にされていて、それを刻んでキセルにつめて、キセル煙草で吸うのでした。自分の家で必要な分だけ、畑の隅に植えたり、屋敷内にも葉煙草が十本、あるいは二十本、三十本と自然にはえているような格好で茂っているのが見られました。
沖縄県史物語 p180チンナン(かたつむり)2では千原繁子さんのエッセイの中で若狭に煙草畑があったのがわかります。最初の引用からすると農家の人が畑の脇に自家用の煙草を植えてあった可能性もあります。
戦前の煙草産地は本部などでした。那覇の市場には煙草売りもいます。
明治36年頃、那覇の才の神近くの小湾のアンマーという人がタバコを売っていた。4尺長さの台の上に刻みタバコをのせ、客がくるとリンゴ大にまるめて、茶紙に包んで2銭で売っていた。タバコは男女を問わずのまれていたが、ほとんどきざみタバコをタバコ盆の引き出しに保存し、使う分はフージョー(布袋)に入れた。客が来ると、きせるを袖口で吹いて廻しのみをした。また東町にタバクチリ伊良波という人がいたが、タバコの葉を切る仕事をしていたのであろう。
グダグダ(β) タバコ那覇市史資料編第2巻下には県の統計書があり、明治35年の「工芸人員」のところには「煙草刻」の人数があります(p435)。
那覇が13戸・36人、首里が11戸・28人います。思ったよりいますが明治35年の県統計には糸満煙草会社というのがありますから家内手工業のタバクチリではなく何らかの会社に属した人達が那覇・首里にもいたかもしれません。
戦前の煙草に関しては「沖縄・たばこの歴史 戦前編/長谷 正視」という本でまとめられているようですので調べてみたいと思います。
まとまっていませんが明治の県統計にあらわれたタバクチリ(煙草刻)ということで。
PR