昭和54年発行の那覇市史資料編から。
民家における二階建ては、辻町の遊廓から始まったらしい。それは辻町が明治末期に大火にあい、再建する時に木造二階建て瓦葺きにしたのがその嚆矢である。その後住まいにも用いられて、大正頃から広く用いられたようであるが、しかし一般化したというほどではなく、街で店舗などをするために用いたというのが実情のようである。
現在の街のように二階建にしなければ住まいの構成が出来ないという敷地の状況ではなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p238
画像はwikimediaからで辻です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tsuji_area_in_Pre-war_Showa_era.JPG戦前の旧那覇の風景には二階建が見え、大通り沿いの大商店の中にはかなり立派な建物があります。まちの種通信の古写真で密集する二階建を見ることができます。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=467
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=469
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=472
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=466
戦前の旧那覇はかなり変化していて、屋敷地の石垣の撤去や通りの拡張、火事による焼失などにより建物も変わってきています。上に再掲した図は以前に紹介した「
新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成」からのものですが、東町大火の範囲がわかります。
論文を引用します。
那覇全体の宅地割について述べたい。先の復原作業では昭和期の地図を土台としたが、それにも関わらず明治37年の地番を推定することができた。つまりこれは、明治37年以降の地割が大部分において細分割されることなく昭和期まで継承されたことでもある。これらの各地割形状は、正方形に近い多角形の形状をして屋敷型の宅地割で、1737年に出された屋敷地一辺の長さでもって制限を加える近世の家作令に由来すると見て間違いない。遊廓地を除く大部分については、久米をはじめとして比較的広大な宅地割で構成され、昭和期の地図でもその様子は窺える。那覇の現住人口は、垣花・牧志を編入した後の明治36年の時点で42,842人、大正3年には56,481人に増加している。この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収されたと解釈できよう。
新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006974616人間の流入はあるが土地敷地の再分割や統合はなし、しかし商業地としての重要性は高まっています。最初に引用した那覇市史の記述では「
二階建にしなければ住まいの構成が出来ないという敷地の状況ではなかった」とあるのですが、これは旧那覇の商業地を除いた記述であると考えた方が良さそうです。
また戦前期に効率的な商業地利用のため新しく登場した建築様式が二階建(ニーケーヤー)であったといっていいのではないかと思います。
二階建とは直接の関係はありませんが、人口集中による住宅不足解消のための方策が
ブリ屋敷(群屋敷)、その他に
カラシヤー(貸家)も存在します。