「那覇新都心物語」掲載の「戦前の天久村 御嶽等の配置図」を模写しました。

ありがたいのは元図も現在の地図に書かれていることでこの図はただうつしただけのものです。「天久村の民俗地図」という図が天久誌にあるので、その図に書き込まれた御嶽などの位置を元にすれば天久部落の位置も描けるかと思います(そのうちやります)。
細かいことでありがたかったのは「平野」の位置がわかったことでしょうか。
部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p39「平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた」という記述と、図ではどちらかというと部落の北側にある平野の位置がかみ合いませんが、とりあえずは地元民のいうことを信用することにします。
図の右下あたりには安里初等学校があります。
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