前島の塩田です。

時期により違うようなのでざっとした図でしかないのですが、「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の9ページにある「戦前の泊の図」から泊病院付近と新屋敷、那覇市史でアカチラバル(赤面原)が塩田であったという記述があったのでそれを加え、「わったぁ兼久」から「戦前の兼久位置図」を参考に兼久付近の塩田、そして「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」8ページの「明治初期の泊」から那覇潟原も加えました。
結果的には塩田であったことがある地域の図ということになるでしょうか。下図は昭和初期の那覇ですので塩田ではなくなっている場所もあります。
昭和5年頃の塩田
このころは泊塩田における塩の最盛期である。製塩業者は余暇悪天候を利用し安里川流域、潮渡川流域の泥田を開拓し、塩田の拡張を図った。
祖先親譲りの塩田を持たない次男・三男の人々は「当間モウシ」の小作人となり、赤面原で塩田するものもあった
那覇市史 資料編第2巻中の7 p273この他の那覇潟原の範囲は下図である
那覇地図(昭和4)をそのまま使っています。
古海岸線は下の図ですが塩田の地域はすべて海であったことがわかります。

昭和20年くらいの写真はこんな感じです。

参考:
兼久・前島・泊参考:
兼久(前島)関連:
グダグダ(β) 当間モウシ関連:
グダグダ(β) 当間モウシの事業PR