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若狭病院

若狭にあった若狭病院です。

俗称はケンサヤーですがこれは辻の性病検査と治療をここでやっていたことによるようです。

辻の妓たちにとって一番嫌なことは性病の検査を受けることだった。
検梅は明治30年から実施、同33年に若狭病院が開設してからは、娼妓は毎週一回、同病院で検査を受け、罹患者はそのまま強制的に入院させられた。芸妓は月一回、ムラヤー(組合事務所)で医師が出張して来て行った(同じように客を取っても芸妓と娼妓では検査が異なった)。
この検査もナシングヮやアトゥミングヮなどは受けなかった(この人達は無鑑札が多かった)。
なお貸座敷業の認可を受けたら実際にはお客をとっていても検査をまぬがれたので、貸座敷の認可の取れる19歳になるとナシングヮなどはいそいで貸座敷の認可を受けた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p147


ナシングヮはアンマーが産んだ子、アトミーングヮはアンマーが後継者にするためつれてきた故郷の姪や親戚の子です(同上 p138)。
ちなみにナシンチャーは自前にならない抱え妓が産んだ子、チカネーングヮが5、6歳のころ買って来た子、サラウティが17、8歳になってから辻に来た妓と説明されています。
※辻は独自の風習などがたくさんあるので当ブログでは基本的に説明は省きたいと思います。

「なは女性証言集」という那覇で生まれた女性の生活史インタビュー集があるのですが、そこで明治36年(1903)生まれの島袋さんという県立病院で産婆をしていた方のインタビューの中にこういう話があります。
[県立病院の]婦人科は子宮後屈、前屈、卵巣炎なんかがあった。梅毒なんかもあったけどあんまり来なかったねぇ。伝染病患者には当たってみなかった。チージ(辻)の人達は若狭病院で一週間に一回検査、波上に「饒平名」という病院があって、そこで検査してから「検査ヤー」の若狭病院に行くの。
その頃は、県立病院と泊に「屋富祖医院」、それから「大久保医院」。私たちが[県立病院内の産婆学校を]卒業してから仲地紀公先生が西本町に開業なさって、それくらいだね。夜勤は週に一回くらいあったかねぇ。
なは女性証言集 p14 (括弧を付記)


最初の図は「わかさ民俗地図」を参考に病院を書き入れました。そのほか赤が飲み屋、水色が飲食店です。
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