「繁多川100周年記念誌 繁多川」から引用します。
ヌージャヌモー(野座毛)跡
シチナンダヌカジマヤー(識名平の十字路)から沖縄工業高校に向けて、100メートルほど行った右側付近のこと。ここは木は一本もない草原で、子どもたちがよく凧揚げなどして遊んだ場所であったが、近年整備され住宅地になっている。この場所は、今から400年余前の1609年薩摩軍が攻め入った慶長の役の古戦場であった。
p72
ヌージャミチ(野座道)
シチナンダヌカジマヤーより西、今の沖縄工業高校方面に通じる道で、昭和10年代に開通した。その頃のヌージャミチは、最寄りのバス停(大道)や軽便鉄道の駅(安里)へ行く時に通る道、また、出征兵士などをウクハルヌメーで見送る時の道として、繁多川住民にとってなくてはならない道であった。
p65
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 (抜粋と編集)
同誌の図(p64)を参考に作成、中央のポインタ(
ピンク)が野座毛、そこから左側へ伸びる線が野座道です。野座道のうち野座毛あたりの破線は旧道になるようです。
首里から見た真和志での写真を再掲します。

この写真と同じものが同誌の「ヌージャヌモーの戦い」(p100)に掲載されています。写真には「昭和15年頃の首里金城町石畳道から望む。写真で小高くなった広場(ヌージャヌモー)が確認できる」と説明されており、ヌージャヌモーの位置に矢印が描かれています。


上左はヌージャヌモーが目立つようにはコントラスト等を調整、上右は拡大しました。
最初の図の上側にある黒線が戦後建設された金城ダムの通りで、道路周辺を谷底として首里金城町と繁多川は向かい合っています。写真の撮影箇所ははっきりとはわかりません(金城町の石畳は壊された箇所がかなりあるようです)。
※この写真は「坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和10年代」に掲載されているようです。
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