ひきつづき明治5年生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
え、昼間です、真昼間、船の左右に幕を張って雨が降ると上にカバをかける。暗くなると提灯に火を入れる。すると遠くからみると水に映えて羨ましいくらい奇麗でしたよ。御飯?そんなのわけない、あらかじめお手伝いさん頼んでおいてヌチャーシー、ヤー<広いお座敷のある家を借りてそこで遊んだり寝起きすることもありまた煮炊きもする>で頂く。ジューシーとなますで簡単にすます。何しろ25貫(50銭)で5日も遊んで舟賃や女中代も払うから贅沢はできない。このアシビヤーはサガイにある湖城家が常宿だった。お友達の家で海を前にしてその向いに奥武山が浮かんでみえた。お椀やお皿などは湖城さんとこで借りて、朝は御飯にお肉のお汁と膾を頂くなり、舟にのるとお昼はジューシーを飯櫃に入れ傍に膾の桶を用意してお手伝いさんが岸で待っているから、舟をつけてお櫃や桶や食器を入れたバーキ<籠>をあげるや手早くよそうと、皆お腹をすかしているから一斉にかぶりつくように瞬く間に空になる。時には雑談したり、噂の誰それ、結婚の取り決めなどなどそしてお昼寝もする。舟は船頭に任せて沖に出ることもある。そのうち、クチ、サビシイネー(口が淋しい意、何か口にしたいような時おやつみたいな)ところ天に甘酢をかけたのを端道の宇良に頼む。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P709、710(抜粋と編集)辻端道の宇良てんぷら。
参考:
グダグダ(β) 庶民とフクミン参考:
グダグダ(β) 油のひみつ明治5年生の方の思い出ですから実体験は明治初期で、そのころにはところてんがあったことがわかります。いつからあるのかはわかりませんが寄留商人が持ち込んだんでしょうか?
明治初めの25貫(50銭)はバカにできない金額です。
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