久茂地大通りは、孔子廟付近(セーヌカンとの交差路)から、チンマーサー(潟原と崇元寺への道の交差路)までの通りで、通りの西方(潟原へ向って左)を久茂地、東方(右)を譜嘉地と呼んでいた。
首里や地方からの通行が激しく、道はでこぼこができ、雨の日はぬかるんだので、シッタイミチと言われていた。
小澤書店や仲元履物店、小渡布団店もあったが、いったいに往還する馬車持ちや人力車曳きを相手のジューシーメーを売る一膳飯屋が多く、また関帝王・千手観音などを描いて売る掛軸屋、印版屋、ブリキ屋、あんもち屋、駄菓子屋など庶民の生活向きの小店が軒を並べた。久茂地は昔から職人の町で、掛軸屋、玩具製造、かすり結い、指物師、線香づくり、粉挽きなど、手先の器用な、家内工業の職人が多かった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P298、299(抜粋と編集)図は那覇民俗地図と「戦前の久茂地村民俗地図」を参考に作成しました。図中の小渡は(上記引用文の)那覇市史中の布団店かどうかは確認できていませんのでご注意。
仲元は昭和12年の「日報の沖縄人名録」にありました。
那覇市久茂地町1ノ48 電474
履物商
仲元喜恭参考:
グダグダ(β) 久茂地町(昭和4) (1ノ48は図と同じ位置)
国場組社史中の「昭和初期の那覇市街図」も同じ位置に「仲元履物店」があることになっています。
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