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那覇文具卸商組合

新聞広告にあった「那覇文具卸商組合」を抜出しました。

那覇文具卸商組合
青山文具商店/東町1丁目33番地
小沢文具商店/松下町○丁目番地
柏谷文具商店/天妃町2丁目60番地
千田文具商店/久米町○丁目1○番地
福田文具商店/天妃町1丁目11番地
津堅文具商店/下泉町1丁目1○番地
許田文具商店/久米町1丁目5番地
外間文具商店/旭町那覇駅前
広島屋文具商店/天妃町1丁目5番地
沖縄昭和新聞1928(昭和3)年9月10日(編集と抜粋)


青山は青山書店、小沢は小沢書店(小沢博愛堂)、広島屋は辰野元造さんの店舗でしょうか。
わからないのは新聞広告にもよく名前の見える勉強堂がここに入っていないことです。
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がきや商店

戦前にはいくつかきっぱん冬瓜漬の店があります。
前に昭和3年の比嘉賀重商店の新聞広告も取り上げました。

琉球名産 高等御菓子
拮餅冬瓜漬
御土産品としても贈答品としてもこれが一番です何卒多少不拘御用命ください
社会奉仕の大安売です
石門通り
宇留間床
元祖 がきや商店
沖縄朝日新聞1925(大正14)年2月26日


「宇留間床」というのがよくわかりませんが床屋なのでしょうか。○○床という名前は良くある名前で那覇にも支那床や薩摩床などの床屋がありました。

米以外での酒造 3

承前。
グダグダ 米以外での酒造
グダグダ 米以外での酒造 2
米で作る泡盛以外にも酒を造る技術は一応あったわけです。
戦後すぐのゴタゴタを見ると基本的には麹と蒸留器を扱う技術があればどうにでもなるのかもしれません。

千切大根 角切大根 花切り大根
酒造用 粟 小米
着荷大勉強
尾張名古屋特約店
米穀砂糖石油種子油素麺千切 卸商
那覇駅前
長崎屋商店
電話三三四
沖縄日日新聞1920(大正9)年8月18日(省略と抜粋)


アンダーラインで強調しましたが酒造用に粟を売っていたことがわかります。
下の引用では粟について触れた箇所を抜き出してありますが、抜粋箇所は「原料米について」の章で外国米への移行について書かれています。

琉球王国時代には、泡盛の製造は首里の三箇に限られ、王府の役所から米や粟の原料が支給されていた。
『旧慣調査資料』の中の「焼酎製造営業人検査」では、1893(明治26)年頃の醸造上の概況や醸造方法、蒸留器などについての記述がみえる。原料は米と粟を用いるとし、粟のみを用いることはないという。米価が高騰した時には米と粟を同じ割合で混交して仕込んでいた。原料の米は唐米(朝鮮米もしくは支那米)と先島の粟を用いた。
1912(明治45)年には泡盛が高騰している原因として、米価の高騰があげられている。そのために当時は粟を原料として泡盛を醸造している。それでも原料の米が足りず相変わらず米価は騰貴していた、原料は「安南暹羅より新米輸入、満州等より新粟の輸入」とあり(略)
当時の新聞記録では、明治大正に書けては沖縄産の米や粟、それに中国の米が使われている。
泡盛の文化誌 p60(抜粋と編集)

氷屋

氷屋関連を新聞から抜出してみます。

 
店員も能く揃ひましたから益々迅速に配達してあげます
那覇駅前
仲宗根商店
電話二一七番
沖縄朝日新聞 1924(大正13)年9月14日
---
店員入用
但シ自転車ニノリ得ル者
波ノ上通リ宮平菓子店ノトナリ
竹内氷店
沖縄日日新聞 1924(大正13)年7月12日


配達員がいたようです。引用した広告の店舗は波之上通りと那覇駅(現バスターミナル)近くです。

新氷出来ました
製造元那覇製氷株式会社の休業に依り止むなく数日間氷品切の処本日より製品復活し新氷発売しましたから何卒多少に拘らず御用命を願います
九月十三日  那覇駅前
元売所  仲宗根商店
電話二一七番
沖縄日日新聞 1927(昭和2)年9月20日(一部編集)


ここでは那覇駅前の仲宗根商店に「元売所」とついており、製造元が那覇製氷株式会社だったことがわかります。垣花で作られた氷を運んできて那覇市内に小売りしていたのでしょうか。
関連:グダグダ(β) 那覇市内の氷室

ただし当時すでに小型の製氷機・アイスキャンデー製造機の新聞広告(住所は内地)もあったりしますので一応小型の製氷機も存在しています。

【追記】市場内にも氷店があったようです。
量目正確配達敏速
氷の御用は電話43番へ
東町市場ヤマセ商会
沖縄昭和新聞 1928(昭和3)年9月14日

別天閣(若狭)

お客様の御便利を図りお一人や御二人の時に限り特に牛皿料理の御注文にも応じます
波ノ上通リ
別天閣
電話七二
記念道路の両側にならんでゐる並樹の翠が深く染められました。これからが波の上の世界です、どうぞひるま水泳の御疲おかへりがけ、夜涼を趁ふて御散歩の御序でにぜひ本閣に御立寄りをねがひます。いろいろ珍しい夏向の大陸的料理が用意してあります。それに二階は風通しがいいので、全○夏知らずであります。(閣主謹白)
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日

別天閣(若狭)

大正11年の新聞広告からです。
図は「わかさ民俗地図」から「別天閣」()の位置を書き入れました。そばにあるのは洪済寺、赤い道が参道で奥が波上宮です。わかさ民俗地図は昭和19年相当ですから大正から沖縄戦まで健在だったということになりますね。
同じ日の紙面から別の広告と記事も抜出してみます。

入用 料理出前持
別天閣
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日


猛火を消し止めた島田式火事止液
一昨夜7時頃波之上角力場に於いて試みた島田式火事止液は壁を包んだ猛火を完全に消し止めて居たが見物人は角力場一帯にい集して○た同液の一手販売は支那料理屋別天閣主人崎間麗徳氏が行って居るが一対一瓶6円70銭である。
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日


出前も行う支那料理屋で主人は崎間麗徳さんであることがわかります。
参考:グダグダ(β) 崎間麗徳

♢新築移転♢
御披露の為め○爾今
当別大勉強致します
別天閣
電話七二
沖縄日日新聞 1927(大正2)年9月20日
---
♢新築移転♢
撞球場新設
別天閣
電話七二
沖縄日日新聞 1927(大正2)年11月11日(一部編集)


大正二年に新築移転していることとビリヤード台を設置したことがわかります。辻近辺にもビリヤード台を置いてある店はあったようです。

内地瓦製造販売

内地瓦黒及赤製造販売
内地黒焼瓦一式鬼瓦種々
内地瓦赤焼土管
石灰沖縄瓦一式
右県庁舎新築屋根瓦全部ヲ完納致候間
多少ニ不拘御用命ノ程伏而奉願候
那覇区崇元寺橋通リ
幸地屋兄弟瓦商会
高良郎作
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日(一部編集)


大正9年の広告ですが県庁の屋根瓦を納品したということがわかります。各種瓦のほか土管や石灰も扱っていますね。
牧志は瓦製造が盛んだったのですが、この高良さんも牧志の人ではないかと思います。

パンの広告

大正9年のパン屋の広告です。

パン界の革命児生る
加奈陀式 食パン アンパン 高等パン
各種製造販売 卸小売
若狭町大通り(電車乗場前)
地山軒
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日


若狭町大通りのパン屋の広告です。
下記サイトを参考にすると大通りには「西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原」の停車場があったようです。
http://www.geocities.co.jp/kikuuj/zatugaku/okiden/okiden.htm
那覇民俗地図をみると西武門と商業学校近くの開洋会館の二ヶ所に停車場らしき印がついています。

「わかさ民俗地図」には西武門のみ「停車場(電車)」と書かれてありますが、電車は昭和8年までで図は昭和19年相当で作図しているようですので時期的に違うのでしょう。20年以上の隔たりがありますからね... 時代も違うので関係ないですが「わかさ民俗地図」には西武門のあたりに「木村パン屋」という名前があります。
ちなみに那覇民俗地図は昭和4年相当で作成されています。

この図は1930(昭和5)年です。那覇民俗地図では久米から若狭へ曲がる角に西武門、商業学校そばのT字型敷地の前に停車場(若狭?)があります。
停車場は「西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原」とあったようですが、「西武門」は角、「若狭」は商業学校近く、その中間にある裁判所の前が「裁判所前」、「若狭」を過ぎて兼久までの中間に「潟原」があったのでしょう。

大正当時の地図はなく広告には住所もないのでここまでです。
とりあえず大正期の若狭にパン屋があったということだけでしょうか。新聞にはパン屋だけではなく食い物屋などの広告も多くみられます。

那覇の河川

下記pdfから図を切り出しました。コントラスト等をいじってサイズ変更してありあります。

那覇市の湧水と川めぐり
www.oeel.co.jp/nahaecopnf1.pdf



このpdfは「バスで巡る那覇市の湧水・川ツアー」で使われたもののようです。
那覇市内の(比較的)大きめの河川がわかりやすいかなと思いました。

小さめで河川とも呼べないような流れもいくつかあります。常時流れていたかどうかは定かではありませんが、繁多川から松川小学校前を流れて真和志中学校そばで合流する流れや松川団地付近から沖縄工業高校付近で合流する流れ、真和志高校から真地を下る流れもあります。
@nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探すというwebページがちょっと凄かったのですが、土地があって傾斜がある以上はこのサイトで示されてるようになります(是非見て頂きたい)。湧水からの流れと溝を区別しないでこだわらずに考えるならばそうなります。
湧水は染み込んだ雨水が地下を経て地層の関係で湧き出て来たもの、溝は地表にあらわれた水の流れなので、土地の大きな生理作用だと考えれば似たようなもんです。
たとえば寄宮中学校付近で消えてしまうガーブーもその周囲はすべて丘、ガーブーあたりを最低地として水が集まってくる地形で下には水も流れているでしょう。

土地の生理作用としての湧水と溝は、人間が<どう利用するか・してきたか>という視点で考えると意味合いが全然違ってきます。
このサイトのは原名をやたらと調べていますが、原名も人間が<どう利用するか・してきたか>で利用方法と名前が決まっています。土地の生理作用や土質・地形が下部構造、その土地を利用してきた人間の暮らしが上部構造という感じでしょうか。
そのあたりの人間と暮らしと土地のからみあいとしての歴史がうまく書ければ良いなと思っています。

現在はドブと区別のつかないそのような小さな流れも取り上げていくつもりです。

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