忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

中央劇場

戦後最初期の劇場だった中央劇場です。
沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第四図表を元にしてあります。

上図の緑の部分が中央劇場となっていますがこれだと以前の昭和26年発行の「最新那覇市地図」を参考にした下左図(中央劇場はD)と合いません。「那覇市旧跡・歴史的地名地図」での位置は下右図になっていて「沖縄主要地・主要商工年鑑」と異なりますが「最新那覇市地図」での位置と同じです。
おそらくこの位置が正しいのではないかと思います。
樋川(S26)那覇市旧跡・歴史的地名地図での中央劇場
中央劇場は闘牛場のようなすり鉢型だったという話があります。この一帯は那覇高校側の高台から中央通りの低地に向けて下る地形なのですがそのどこに中央劇場があったのかはちゃんと書かれた書物を見つけきれていません。
「沖縄主要地・主要商工年鑑」を基にした最初の図だと中央通りと平行するようにある通りのカーブ付近にあると読み取れますが、「最新那覇市地図」だと那覇高校の通りから下ってゆく途中にあると読めます。

【追記】『沖縄映画興行伝説』に中央劇場の想像図がありました。
http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg01.html#%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8A%87%E5%A0%B4

「沖縄主要地・主要商工年鑑」には中央通りなどの通り名も書かれています。中央通横道には旅館や食堂などがありますが昭和中期のゼンリン地図ではほとんどが消えてしまっています。

[1947年]11月下旬頃には、現在の開南バス停付近から中央劇場通りにかけて、物々交換の場として自然発生的に市場のようなものができていた。ヤミ市の草分けである。付近は高台になっていたため、ウィーマチグヮー(上の市場)と呼ばれた。
沖縄・国際通り物語 p65
グダグダ ウィーマチグヮー(上の市場)


この中央劇場を中心とした通りは撤去命令によって消えてしまうのですが51年ごろにはまだ店が残っていたようです。もっとも新栄通りや公設市場などにも近いためそれなりに便利な場所ではありました。
中央通りは後年なぜか質屋が集中するのですが昭和中期ごろは西島質店の一軒だけしか質という名前はありません。
PR

イー田跡

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」に「イー田跡」というのがありました。下図はその範囲を示しています。

「イー田」というのがなんなのかということですが自分はイグサの田んぼでは無いかと考えます。イグサは湿地で栽培されます。
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を見ると第二公設市場を中心として「イー田跡」になっています。イー田の中央をガーブ川が流れていたのですからそりゃ雨が降れば冠水しますよね...

牧志は、砂糖キビやサツマイモなど野菜造りの畑が多かった。また一帯には、イ草や水イモの田んぼがのどかに広がり、今は暗渠になっているガーブ川が流れていた。田んぼには蛙や船、トービーラー(闘魚)がたくさんいた。
沖縄・国際通り物語 p21


自分は藺草(イグサ)のイー(ヰー)とビーグはどう違うのかというのがよくわかりません。

ビーグムシル/備後表。ビーグヰー biigu'ii(備後藺) で織ったむしろ。一般に琉球表と称しているものは七島藺で作るもので、それはサチヰー saci'ii という。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30554


ビーグヰー(ビーグイー)は備後藺、ビーグ=備後で、ヰーが藺でしょうか。そうするとビーグは○○藺の○○の部分のように品種などに相当すると思われます。

ビーグヰー(名詞) 植物/備後藺。勝連村・与那城村・具志川村などで栽培されていた。ビーグムシルbiigumusiru (備後表)を織る。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30552

ヰー(名詞) 植物 /藺(い)。燈心草。ビーグ ヰー biiguii、サチ ヰー saciii の二種がある。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN02008

サチヰー(名詞) 地名 /裂藺]藺(い)、七島藺。琉球表を作る藺。茎は三角形で、これを裂いて乾かし、畳表とする。その質が丈夫なので、台所用・道場用などに用いられる。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN16215


七島藺で検索するとシチトウというのがそれのようです。

シチトウ - Wikipedia
別名をリュウキュウイ(琉球藺)、シチトウイ(七島藺)とも。湿地に群生する。畳表などに使われることがある。

改修以前の国際通り

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では国際通りの久茂地側入口から松尾消防署手前、そしてパラダイス通り入口からむつみ橋までが現在の道筋と少しだけ異なります。戦後の工事で直線化されたと思われます。
下図はその改修以前の道筋(昭和10年代後半)を描いてみました。
家政女学校
この緩いカーブは写真にも残っています。
美栄橋町
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では最初の図のような緩いカーブなのですが、写真ではもっと急な曲がり方をしてるように見えます。
このカーブの理由なのですが、松尾側は高台になっていますから現在の直線化された道は切り崩されて造られたのではないかと思われます。つまり丘を避けるようにゆるやかにカーブしたのではないかということです(改修以前の国際通りと紅房)。

この写真は山形屋の向かい、松坂屋跡と道を隔てた隣りにあった映画館の立て看板ですが看板の後方は小さな丘のようになっています(現在は整地されて建物があります)。
参考:グダグダ(β) 国映館・松坂屋間

【追記】コメントで山形屋・むつみ橋間の道路改修が比較できる写真をご紹介頂きました。最初の写真で橋そばの角にある二階建てを目印にするとわかりやすいんではないでしょうか。
http://www.flickr.com/photos/tabor-roeder/4911061795/in/set-72157624617858927/lightbox/

http://www.flickr.com/photos/jimgris/511821781/sizes/o/in/photostream/
最初の図を再掲(左)、米軍撮影の道路改修前の写真(右)。左図は少しオーバーに描きすぎたか。
家政女学校

太陽醸造の広告

市民の友1959年1月1日号に太陽醸造の広告があります。

あなたは御存知ですか
太陽醸造の洋酒ラム!
島内産唯一の ラムヘリオス スイートラム
正に天下一品
皆様ラムのおみやげ品は山形屋又は各酒販売店でお求めください
直営酒場 ラムの店
那覇市桜坂中通り
製造元
太陽醸造合資会社
電話(88)2824番
市民の友 1959年1月1日 第98号


この太陽醸造は後年のヘリオス酒造になりますが1961年設立になっていて、ヘリオスのウェブサイトでも同じです。とすれば市民の友1959年の広告は何なんでしょうか。
末尾に追記しましたが1959年の「琉球人名商社団体要覧」にも太陽醸造があり、住所は崇元寺町1丁目9番地、電話番号も同じです。

1961年 - 松田正が那覇市にて合資会社太陽醸造を設立。
1969年 - 社名をヘリオス酒造株式会社に変更。
1972年 - 本社・工場を現在地の沖縄県名護市字許田405番地に移転。
ヘリオス酒造 - Wikipedia


以下は関係ない検索まとめとして。
太陽醸造で検索するとサイパンにあった南洋興発で造られていたラム関連のページが出てきます。

日本で初めて造られたラム酒、南興ラムはここで消え去りはしなかったのです。1946年、東京・芝浦にあった南洋興発株式会社・芝浦製酒工場が競売にかけられ、これを旧南興人が落札。翌1947年、旧南興人によって太陽食品工業株式会社が設立。
その後、子会社として同年に精製糖部門の芝浦精糖株式会社を設立。
そして、1950年には酒造部門が分離され、太陽醸造株式会社が設立されました。この太陽醸造株式会社に南興時代の施設及び南興ラムのノウハウが受け継がれ、ラム酒の研究が行われるようになりました。
1952年。 南興ラムの系譜を継ぐ、戦後発の国内産ラム「ネプチューン・ダーク・ラム」が遂に完成します。
http://blog.livedoor.jp/fed_bar/archives/51107355.html


参考:南洋興発 - Wikipedia
参考:松江春次 - Wikipedia

南洋興発ではラム酒製造を行っていたためノウハウがあります。
内地では1946年に芝浦製酒工場を南洋興発の旧社員が入手して太陽食品工業株式会社を設立、そこから1950年に酒造部門が分離して「太陽醸造株式会社」が設立。
沖縄では1961(広告では1959年)には「太陽醸造合資会社」がラムを製造していた。
サイパンには多数の沖縄県人が行っていますので、南洋興発での酒造りに沖縄県人がかかわっていた可能性もゼロではないと思われます。またサトウキビを原料とした酒造り(工業用も含めて)は戦前の沖縄にもありますが、ラム酒製造の技術があったかどうかは不明。

ここからは妄想になるのですが沖縄と内地で同時期に太陽醸造という会社(㈱と合資会社ですが)がラム酒を製造していたのは偶然でしょうか。なんかあるんだろうなと思っていますが証拠は見つけられていません。

【追記】「琉球人名商社団体要覧(1959)」に太陽醸造がありました。崇元寺1丁目は大通り側(2丁目はその北)になります。
太陽醸造株式会社
那覇市崇元寺町1丁目9番地 電話(88)2824
ラム・ヘリオス醸造販売
代表者 名護朝慧
工場長 宮本正
琉球人名商社団体要覧(1959)

パラダイス通り

興味深いページを見つけたのでご紹介。

オキナワ・ストリートウォーカー パラダイス通り特集【Okinawa情報局】
http://www.okinawajoho.net/pc/street/paradise/index.html
戦後、今のパラダイス通りのちょうど真ん中あたりに「ニューパラダイス」という名前のダンスホールがありました。若者を中心に日本人もアメリカ人も誰もが踊れる社交場として大流行し、「ニューパラダイス」に集まる人々が店の前の狭い通りのことを自然と「ニューパラダイス通り」と呼ぶようになったのです。

ニューパラダイス通り
上の図で画面左端の青で示されたところがニューパラダイスです(ゼンリン69年度版による)。【追記】「那覇市旧跡・歴史的地名地図」ではその向い側になっています。
ゼンリン地図で確認できるダンス教授所は三カ所あって赤い点で表示しました。水色のが飲食業らしき名前の店舗、黒い点は商店や理髪店などの飲食以外の店舗、四角で囲った場所が新成駐車場です(現在はマンション?)。
ニューパラダイスの建物はわりと後まで残ってたようですが自分は記憶がありません。通りにずらっと平屋一階建ての木造建築の店舗が建ち並んでいたのは憶えています。

興味深い文があります。
>戦争が終わって地主がいなくなってしまったこの辺りには、沢山の人々が勝手に住みついていたんです。
>そこで那覇市が区画整理を行い、ひとり30坪づつ土地を割り当てました。
>私たち兄弟は5人で150坪をもらい、そこに当時船員だった兄が廃材を集めてレストランを造ったのです。
>それが最初の「ニューパラダイス」でした。

パラダイス通り周辺もスラム的発生をしていたんですね。
自分の推測では新県道(国際通り)以前の道は山形屋裏から沖映通りのパチンコ店脇駐車場に出て沖映通りを渡り現在の建物の間を通る道が通行路だったんではないかと思います。この道は現在の公園側を通るパラダイス通りと平行した細道を通り一銀通りに至っています。
そして戦前ではこのあたりは墓地地帯に囲まれていて集落がありません。

戦前の図では牧志町から美栄橋町にいたる道がその道に該当するかと思われます。

シッポウジヌガマ(県庁・警察部繁多川壕)

繁多川にあるシッポウジヌガマです。

図中の赤いポインタがガマ(洞窟)、青いポインタがシッポウジと「はんたがわさんぽMAP」には書かれています。ピンクの線は真和志市誌を参考にして真地竹下原を表しているつもりですが正確なものではありませんのでご注意。

シッポウジヌガマ(県庁・警察部繁多川壕)
字真地の竹下原、通称シッポウジにある標高約90メートルの高台にある全長約130メートルの自然壕(一部構築壕含む)。沖縄戦のときは一部拡張して100余名が避難、島田叡知事室や荒井退造県警察部長室もあった。昭和20年4月27日に戦中最後の市町村長・警察合同会議を壕内で開催した。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p20


「はんたがわさんぽMAP」は現在の地図上に史跡が書かれています。なのでシッポウジと図示された地点は道の曲がり角横とわかります。
真和志民俗地図出の竹下原は尚家の馬場跡()からまっすぐに進む道を竹下原と御殿後原の境界線にしています。なので真和志民俗地図では「はんたがわMAP」のシッポウジは御殿後原にあることになります。ちなみに真和志民俗地図ではシッポウジと示された辺りは「トマシチャ」とありサーターヤーが二つあるようになっています。

参考:グダグダ(β) 泊下(ティマシチャ/トマシチャ)

【追記】シッポウジは「四方地」と書くようです。
識名墓地が広がる台地の東側に、四方地の神が祀られているところから繁多川の住民がシッポウジヌガマとよんでいる壕があります。
http://13.pro.tok2.com/~kariyushi/shiseki/senseki/sp.html

筆山(繁多川)

フディザン(筆山)
高さ約5メートル、直径3メートルの地面から突き出した岩のことで、先のとがった形が筆に似ていることからそう呼ばれた。石田城碑文(1762年)によると金城・寒川(カナグシク スンガー)等の文人たちによる名称で遠くからでも目立つ奇岩であった。学問の神様として地元では御願コースになっているが、現在住宅地で入れないため、近くより拝んでいる。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p10

筆山

この筆山は見たことがなかったのですが石田川(イシダガー/イシジャガー)側のスージを入って行くと案内板があり、約1.5メートルくらいのコンクリート塀に設置されている案内板の向こう側に筆山はありました。案内板の位置からは余程背が高くないと全体は見えません。
図中の赤いポインタが筆山、青が石田川です。写真は下記アドレスより無断拝借。

繁多川11ヶ所めぐり
http://www.nahaken-okn.ed.jp/sikin-es/H15web/hantagawa_meguri/hantagawa_meguri.htm


筆山は筆架山と書かれているのも見ます。

1762年に建立された碑文には「この岡は筆架山(ヒッカーザン)を中心にした景観地で金城、内金城、寒水川、立岸の4集落の風水を守るため、真和志間切の住人は樹木の伐採や採石、お墓を建てないように」と書かれている。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p14


仲村渠栄信

「大典記念沖縄人事興信録」(1929)から崇元寺の仲村渠さんです。

仲村渠栄信
慶応元(1865)年7月3日生
現住所:沖縄県那覇市崇元寺町1ノ103
職業:清涼飲料製造
明治15年8月旧名護御殿奉公申付候事名護按司
明治25年頃名護間切文子安和掟屋部掟を勤め、明治30年吏員改革の時役場書記となる
越えて明治38年役場書記を罷め、森岡及び日本移民の両支店を引き受けて代理店を置き移民に従事す
明治42年移民業を罷め、清涼飲料水を国頭郡名護に創始す、其後帽子営業をなすこと4ヶ年間
大正2年より大島郡名瀬に満9ヶ年間清涼飲料水製造業に従事す。目下那覇市崇元寺町にて引き続き同業を営む
此の他副業とし養鶏、菊、蔬菜の栽培をなす
大典記念沖縄人事興信録 (抜粋と編集)


文子(ティクグ)、掟(ウッチ)です。

王府時代、地方(じかた)とは町方(首里、那覇)に対する農村のこと。地方役人には、地頭代・耕作当・山当・夫地頭・首里大屋子・掟・文子などがおり、先島には蔵元に頭・首里大屋子・大(脇)目差・大(脇)筆者・与人・目差らがいた。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41565-storytopic-121.html


戦前の清涼飲料水とはどんなもんだったんでしょうか...

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

01 2026/02 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]