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空中写真での子供博物館

Remembering Okinawaから。久茂地小・国映館・子供博物館の一帯です。
http://www.rememberingokinawa.com/page/1950-55_early_aerials

この写真は一銀通り完成後で、曲がり角に第一相互銀行があります。

こちらは一銀通りはまだで第一相互銀行の建物もありません。一銀通りは国際通りから入ってすぐ辺りは丘の切り崩しが行われていて、この写真はその工事以前の地形がわかるものとなっています。

撮影位置。


子供博物館を切り出し。こうしてみると丘の上にあったというのがよくわかります。
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キラク/仲宗根商店

Remembering Okinawaから拝借。GI PHOTOS 1956だそうです。

写真中の看板を拡大。最初の写真の手前から奥に向って、仲宗根商店、大衆食堂 木多、キラク食料品ストアー、奥に小さくマーケットと読める看板(後述)があります。

前にグダグダ(β) 市場通り(52年) 2で扱った沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の図にこれらの店は名前があります。これを参考にすると奥のマーケットと読める看板はキラクマーケットです。
撮影位置の推定。

写真の範囲の店舗はピンクで示した範囲(新栄通りとえびす通りからくる道に挟まれた一帯)のうち壺屋寄りになります。青ポインタくらいの位置から平和通り中心部に向って撮影したんでしょう。

かめや(えびす通り入口)

Remembering Okinawaから絵葉書。着色された写真のようです。

http://www.rememberingokinawa.com/page/cpc_naha_shuri_1
場所は新栄通りと浮島通りの交差点で桜坂方向を望むアングルですね。左の「かめや」がえびす通り入口、右の木造建築が丸国マーケット。左側のコンクリ建築が十字屋楽器店、背景には萬田ドレスメーカー学院の白い建物が見えます。さらに後方は希望ヶ丘服装学院?かめやの後方には丸廣本店と見え、右側の建物の壁には食堂?と書いてあります。
参考:グダグダ(β) マルクニ

以前取り上げた写真。

http://mickmc.tripod.com/hyatt118.html
丸國マーケットかその隣り(三共デパート、新生デパート)からの撮影だと思われます。

黒丸宗周辺



図は真和志小学校から黒丸宗前の道で、「最新沖縄県番地入り地図」を参考に作成しています。
大きく変わったのは後年黒丸宗になった敷地の前ですが、この前にあった道はもともと濃い茶色で書いたようなカーブを描いていました。寄宮売店前バス停からの今もある細い道から連続しています。
「戦前の寄宮民俗地図」では黒丸宗通りが無く、寄宮十字路からくる道は山幸しょうゆ(戦後から/
寄宮73)のあたりまでしかありません。

以前に書いた黒丸宗・赤丸宗関連。
現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗ができたのがいつなのかははっきりしません(58年発行の地図にはある)。黒丸宗(現寄宮市街地分譲住宅)が現在の敷地になったのはおそらく道路の直線化と同じ時期?
グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2
グダグダ(β) 50年代初期の具志堅醸造所

仮説で話を書いてみます。
(1)まず50年に壺屋近く(真和志郵便局近く)の寄宮に具志堅醸造所ができる。
(2)51年に具志堅醸造所(赤丸宗)は首里へ移転する。
(3)だが52年の沖縄主要地主要商工年鑑には変わらず壺屋近くの寄宮の同じ場所に「具志堅醸造所」はある。この時点で黒丸宗が分裂か?
(4)1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とある。

※現時点では52〜58の間に壺屋近くから真和志小近辺に移動して来たことがわかるが時期の特定はできていない

黒丸宗がいつ真和志小近くにできたのか、もしくは黒丸宗通りがいつできたのかがわかればすっきりするんですが...
黒丸宗の住所はおそらく寄宮62か63です。

59年の松川線(銀バス)

沖縄タイムスの1959(昭和34)年12月には銀バスの路線変更のお知らせが掲載されています。

皆様のご利用をいただいております識名線松川線を左記の通り路線の一部を変更し来る12月16日より運行する事になりましたので(略)
(3)松川線
旧=与儀-開南-政府南入口-旭橋-琉銀-通堂-西武門
新=与儀-開南-政府前入口-立法院前-政府前-西武門
沖縄タイムス 1959年12月16日(抜粋と編集)

※元図では点線で変更箇所が示されてますが読み取れませんでした


どこを通っていたのかいいかげんに推定してみます。

バス停の位置は変化しないだろうと思いますので使われてる(いた)バス停の位置を図中のバス停名に当てはめてその間をつないでみました。赤が松川線で青は識名線です。
交番前は安里交番前のことだと思いますので大道と書いた位置かもしれません。
琉銀(1955年頃)は久茂地へは1966年に移転してるので東町にあります。
市役所は当時は天妃小学校(参考:那覇市役所の位置(戦後)

まちのたね通信を参考にすると1958(昭和33)年頃には上之山中学校向いにバス営業所。
これはおそらくあらかきバスの敷地を利用したもの。
参考:グダグダ(β) あらかきバス整備工場跡

那覇まちのたね通信 | 銀バスの西武門営業所/上之山中学正門前の広場にあった/昭和33(1958) 3月10日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3359


1958年12月の市民の友から抜粋した大石橋・政府住宅前道路ですが、記事によれば2月12日竣工の予定で、「橋梁、道路の両工事が完了すれば、来春[1959年]から真和志小校-工業高校-三原教会までの車両通行も可能で、バス路線の開設も計画」されているそうです。
最初の路線変更お知らせをみると政府住宅近辺を通るのは松川線で、後年の松川線(工高線)の真和志小から工業高校の区間は推定図と同じ道を走っていました。真和志小から黒丸宗を経て工業高校にいたる道はこの路線以外には考えにくいかと思います。

大石橋・政府住宅前道路

1958年の市民の友から。

大石橋の新設始まる
市土木課では11月12日、市内三原政府住宅前の大石橋(巾員7米、延長4.5米)の新設工事にとりかかった。同工事は近く入札される政府住宅前道路の改修工事(巾員7米、延長200米)と平行して行われるもので、平良組が工事費3200ドルで着工、来年2月12日竣工の予定。橋梁、道路の両工事が完了すれば、来春から真和志小校-工業高校-三原教会までの車両通行も可能で、バス路線の開設も計画されており、付近住民に大きな便利を与えることが予想される。
市民の友 1958年11月15日 第96号
将来バスも通る/大原政府住宅前道路工事始まる
市土木課では、さる11月25日、真和志大原政府住宅前道路工事の入札を行った。この工事は巾員6.30米、延長364米、工賃5800ドルで平良組(平良作吉氏)の手によって来年2月末完成する。これはさきに着工された大石橋の工事とも平行して行われ、将来はバスの通行も計画されているようで付近住民から期待されている。
市民の友 58年12月11日 第97号


市民の友に書かれた工事がどこの区間であったのかを推測してみます。
まずオレンジ色の政府住宅があって、周囲には3つ橋があります。上図でaは51年の沖縄主要地主要商工年鑑(下図)に橋とはっきり書かれてありますし、bも角にあった識名酒造(現スーパー/下図の4)からの道ですから51年にはもう橋はあったと思われます。上図中の赤い正方形は参考のために一辺100メートルで描いてあります。

結論としては最初の図でのcの位置にある大石公園前の橋が新設された橋で、図中の茶線の区間のうちのいくらかが拡張工事されたと考えられます。
59年の松川線(銀バス)で松川線(工高線)を取り上げたんですが、59年にはバスは真和志小から工業高校の区間を走っています。また65年の松川線路線図を見ると真和志小から繁多川までには「真和志小校前 - 黒丸宗前 - 政府住宅前 - 繁多川入口」という順でバス停があって工業高校へ向う経路になっています。
バス停名ももろに「政府住宅前」で道路のそばには政府住宅がありますので妥当な推測ではないかなと思います。

コメントでバス停名を教えていただきました。ありがとうございます。

改修以前の国際通りと紅房

改修以前の国際通りの続きのようなもんです。
図を再掲。
家政女学校
上図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考に作りましたが、50年代の改修以前はこの道筋のままであったようです。
下左写真は米軍撮影、下右図は写真から読み取れる道筋。
美栄橋町

以前取り上げた「沖縄主要地・主要商工年鑑」の51年版(第九図表)と52年版(第一図)での紅房。

紅房社史からこの位置にあったころの証言を取り上げます。

岡本[亜紀] 話は戻るんですけど、国際通り時代、製作工場と店舗がありましたよね、たしか。
山城[正成] 国際通りにあったときには、工場の敷地は非常に広かったですよ。建物がトタン屋根だけれども、4棟くらいありましてね。その周辺に、従業員の社宅があったんですよ。今の「わしたショップ」から国際通りを横切って「ざまみ紙店」のうらあたりまで紅房の敷地だったんです。
親泊[一郎] それは戦前も敷地だったんですか?
山城 いや、戦後に。その後国際通りが拡張するというので、今まで紅房の前にあった道が紅房の敷地の真ん中になってきた。真っ直ぐにしたために。だから「おまえら移れ」と、その時の市長が当間重民さん。そういうことで若狭町に移された。
紅房社史 p58(抜粋と編集)


ということで現在の道路がある場所に紅房があったのは間違いないようです。

沖映・パラダイス通り[那覇亭通り](52年)

沖映・パラダイス通り(51年)の続きのようなもので、左図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第十九図、右はその範囲を示したものです。
左図は本来2ページにわかれて書かれてあったものです(左下/右上)。下の横線が国際通りで縦線が沖映通り(那覇亭通り)、左下の上の十字路と右上の下の十字路は同じ。

一応説明しておくとガーブ川の暗渠化はまだで、ダイナハ(現ジュンク堂)から58号線に至る道路もありません。

1は国際通り側からノーブル洋裁店、神戸美容院、赤嶺時計店、大きな箇所が沖映館、過ぎて沖縄貿易協会、児玉洋服店、ブルーライト(角)。[ここから右上]道をこえて旭旅館、なるみ旅館、南海水産、新里酒造場、道をこえて那覇亭、我那覇鉄工所、我那覇鋳物場
2は国際通り側からデイゴ美髪館、洋月旅館、川上洋服店、二見タクシー、有水製材所、すこし奥に東家旅館。すこし離れて沖映の向かい辺りから菊美洋服店、丸三旅館、兼次商店(和洋菓子 日用雑貨)、食堂南国、パンヤ食堂、レストラン亀屋、仲地歯科、マルタマ商店、西村商店(角)。[ここから右上]道をこえて沖理髪館、富士薬局、なるみ美髪館、日栄商店、泰平通商、御宿吉原亭
3は沖映通り側から。左手は外間味噌製造所、御宿知念、高松理髪館。右手はマルヨシ製靴店、太陽食品加工場、ニューパラダイス、姫百合綿花工業所

新里酒造は戦後は昭和28(1953)年から那覇市牧志にて事業再開、昭和63(1988)年、沖縄市古謝へ工場を移転しています。
1969年のゼンリン地図では下の位置にあります。

料亭那覇の旧位置で使った図と写真を再掲。

料亭那覇の推定位置。

沖映通りを国際通り側から行くと新里酒造場と那覇亭(料亭那覇/青ポインタ)は道を挟んで隣り合っていて、市民の友掲載の図を参考にすると料亭那覇は現在の道路の位置にあったということになります。後年昭和期の新里酒造場はこの道路が出来てから移動したと思われますがよくわかんないとこです。

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