忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

市場の珍商売 1(53年)

那覇市史の戦後新聞集成2(p57)から記事を抜粋します。
売り場を離れる暇もないおばさん達相手の食べ物売りが闊歩している様子です。

こんな商売もある/市場内から拾う珍商売/おかゆやウムニー/何んでもござれ、手鍋さげて売り歩く
那覇の「マチ小」は有象無象の商売地、正式に市当局から使用許可されているものだけでも800名からいるが、その間隙を狙った無免許商売も無数、従って商売の種類もいろいろだ、あらゆる商法が編み出されている。それは生きる苦しみを如実に物語っているともみられるが、ここではそういったことはぬきにしてまずは市場を中心に市内各地にみられる珍商売の御披露といこう...
ミソ汁5円也 “お巡りさんは愛嬌者”とばかり散っては寄り集まっては散っている立ち売り姿はもう見慣れたもの、橋の上や軒先きでテンプラを売るのも珍しくはないが、市場のアンマー達を御客様として煮立てのゼンザイは勿論オカユ、ウムニーから湯豆腐、ソーミンチャンプルーまでかかえてリスのように売り歩いている姿はちょっと御存知あるまい。何かしら収容所時代を思い起こさせるものがある。朝から晩まで坐り通しのアンマー達、なかには弁当持参もあるが、その腹工合が目当てだ、主なものを挙げるとウメボシ1つつけたオカユが5円、サツマイモ2つに湯豆腐1杯10円、ソーミンチャンプルー5円、七輪をかかえて焼き歩くサカナがキウリか沢庵づきで10円、ミソ汁が5円とか10円、ウムニー5円、市場事務所の話ではこの種商売人が数十名も居って同じ味噌汁でも各人で違うというから以上は標準といったところ、この商売にも時間がある。まず現れるのがあさ11時頃のゼンザイといったところ、手提げ鍋からおわんに入れて“ハイどうぞ”と差出す。朝からパタパタ働いてきてホッと一息といった恰好のアンマー達だ、欲しくなるのは当然といったところ。次がこの商売のかきいれどき、つまり中食時間だ。手ぶらできても坐って居て毎日違った物が食べられるとアンマー達はのべていた。お茶はサービス、使ったおわんは後でかえせばよいそうだ。中食が過ぎるとおやつの時間がくる。オカユやソーミンチャンプルー等の売れるのがこの時間。上等品ではイナムドチ等も現れてくる。
沖縄タイムス 1953年1月25日 (抜粋と引用)


ウムニーは芋を潰した物ですがここでは食事としてのものでしょうね。

アタビー通信: ウムニーついでに芋羊羹
http://gajimaru.blogzine.jp/kedaman/2011/03/post_3d0c.html
PR

沖縄訓盲院・私立沖縄盲学校・県立代用私立沖縄盲学校・沖縄県立盲聾唖学校

戦前沖縄の盲学校について沖縄大百科事典を参照してまとめてみます。

沖縄訓盲院
宮崎県延岡市出身(大分盲学校卒)の高橋福治によって沖縄で最初に創設された盲人のための私立訓練施設。沖縄県庁宛に出した質問状により沖縄に盲教育が皆無であることを知り、1920(大正9)年3月に来沖。同年4月那覇区公会堂の一室を借り盲人塾(沖縄訓盲院)を開始、この塾は5ヶ月余公会堂にあった。その後は石門通り、善光寺坂の民家に移り、21年5月に天妃町の大田有功宅の一部を借用。33年に真和志村松尾に移転。
24年4月には私立沖縄盲学校として正式認可されている。

私立沖縄盲学校
1924(大正13)年4月に文部大臣から正式認可された沖縄県最初の私立盲学校。
学校経営は国・県・市からの補助金及び一般篤志家からの寄付金でなされた。生徒数14人(男12、女2、本科2学級)で、授業科目は修身・算術・国語・按摩術など(1930)。教員は高橋福治校長ほか2人。
1933(昭和8)年4月真和志村松尾に校舎を移転。40年4月には県立代用私立沖縄盲学校、43年4月に沖縄県立盲聾唖学校(沖縄県立聾唖学校と合併)と改称し県へ移管された。
45年2月戦災のため閉校となる。


戦後は1951年に沖縄盲聾唖学校として首里石嶺に開校したようですので、松尾に学校があったのは1945年までだと思われます。
高橋福治さんについてのページがありましたので引用します。

高橋は生前、盲学校建設のための土地を求め、1960年、自己の所有地811坪を盲人福祉協会寄贈した。沖縄が本土に復帰して2年後の1974年3月、寄贈された土地に、地下1階地上4階建て(延べ床面積900平方メートル)の「沖縄盲人福祉会館」が建設された。高橋はその功績が認められ、1974年5月にヘレンケラー賞を受賞したが、同年12月、79歳でこの世を去った。
高橋福治|宮崎の偉人

http://www.0503ak1025.net/zz-takahasi.html


この「沖縄盲人福祉会館」は現在の沖縄視覚障害者福祉センター(松尾2丁目15番地29号)であるようです。戦前に松尾に移動してから県立になっていますので、松尾の土地は高橋さんが購入したもの、戦後は1951年に石嶺で沖縄盲聾唖学校が開校していますので、学校跡地は盲人福祉協会に寄付されたのだと思われます。

現在の「沖視協」の前身は、世界第二次大戦以前には、「沖縄盲学校」内に「沖縄盲人保護協会」が発足されておりました。
---
旧会館は昭和49年に「沖縄盲人福祉会館」として、(元)、「沖縄盲学校」の跡地に建設し、開館されました。
1.沖視協創立50周年記念式典・新館落成式によせて (抜粋と編集)

http://okishikyo.net/tenji/paper_200811.html



以下余談ですが、この土地は戦後の一時期消防署だったのではないかと考えていますがよくわかりません。

http://www.city.naha.okinawa.jp/fire/soumuka/11_1.html

山城高保

承前。
グダグダ(β) 山城高興(ギンコウヤマグシク)
グダグダ(β) 山城高興について
昭和13年9月1日発行の「月刊琉球」にある人物立体写真から抜粋します。

彼[山城高保]自身の話に依ると彼の資産はせいぜい60万円位だといふ。
---
彼[山城高保]は先代山城高興の孫である。正確に言へば高興の次男(高義)の嫡子である高興の長男(高元)が、子なくして夭折し、彼の父高義も祖父に先立って死んだ為、彼は明治大学を出ると直に帰郷して、祖父の家業の手伝ひをさせられた。祖父高興は沖縄のやうな土地で、一代であれだけの財産を築き上げた人だけに、相当にむつかしい人間であつたらしい。
---
兎に角彼は現在現実に百万長者の一人である。何時か本誌のマダム座談会に、沖縄の美男の一人に数へられた彼も、もう今年36歳、愈々油の乗りかける年頃であり、今後彼が県下の実業界にどういうふ役割を買つて出るか、名誉欲も権勢欲も人並には持つてゐるらしいが、事業には手を出すなといふ祖父の遺訓の下に、彼が今後どう動くかは実に興味深い問題であらう。
(赤嶺百歳)
月刊琉球 第2巻第8号9月号 p11(抜粋と編集)


これによると昭和13年9月までには山城高興は亡くなっていて、子供が早世していた為孫の山城高保が遺産を相続していたことがわかります。
文中で美男とされていますが、確かに歌舞伎役者のような色男です。昭和13(1938)年に36歳ということは明治35年頃の生まれになるでしょうか。

改姓広告

長田紀秀の復姓(改姓)広告が月刊琉球(昭和12?)にありましたので抜粋します。

復姓広告
拝啓私共儀此度饒平名姓より自今祖先の長田に復姓致候に付き宜敷御承引願上度此段謹告仕候     敬具
旧姓饒平名  
  長田紀腆
  長田紀助
  長田紀秀
辱知各位


「沖縄苗字のヒミツ/武智方寛」では改姓する場合のパターンがいくつかあげられているのですが、これは先祖の姓に戻すというパターンです。
詳しくは同書を参照して下さい。

関連:グダグダ(β) 改姓した人 (沖縄に無い姓に改姓した人)

那覇と真和志の赤線

那覇市史の戦後新聞集成2(資料編第3巻4)から1953(昭和28)年6月の記事を抜粋します。那覇市史には関連する記事が収録されていないのでどうなったのかはわかりません。

条件付きのオン・リミッツ/4日から一斉に解禁/赤線地帯に標識掲げる
去る4月1日以来実施されて来たオフ・リミッツは、関係市町村の手で『赤線地帯』を設けることによって、初めて禁を解かれることになり、那覇。真和志、嘉手納1市2村を除く他は4日から一斉にオン・リミッツとする旨正式に軍から公表され、2ヶ月振りにやっと解決を見ることになった。(中略)
なお那覇市と、真和志村は協定書を入れなかったが、これは目下の所赤線区域の設定が困難だったためと見られている。
(中略)
微妙な那覇・真和志/赤線地帯、話合いで決めたい
条件づきでオン・リミッツということになったが、さて。この条件設定については各市町村とも頭を悩ましているようだ。こんど協定書を見合わせた那覇市と真和志村当局に意見と対策をきいてみた。
那覇市平良社会部長の話 - 赤線区域を設けよとのことだが、これは実際問題として困難だ。赤線区域に相当するところが現在あるかといっても、それは極めてアイマイだ。それをまとめよということになればそれこそむつかしい。それで5日頃市議会や関係業者と対策を練り、何とか名案を出そうと思っている。
真和志宮里村長の話 - 真和志村は米軍人さん達にはそれほど利用されてもいなかったので、オフ・リミッツもそんなには、応えなかったと思っている。例えば栄町でも、アメリカの人達は余り立ち寄っていない。然もそういったところを赤線区域だと指定することもどうかと思う。今のところ良い考えもないが、那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もあるので一応、那覇市に問い合わせることにしている。
沖縄タイムス 1953年6月2日 那覇市史戦後新聞集成2 (抜粋と編集)


記事別箇所には「日没後オフ・リミッツを宣言されたが、之は市町村の一部に多くの衛生的欠陥の確実な増加があったため、オフ・リミッツの必要を生じたからである」と司令部が述べています。
また「但しこのオフ・リミッツの解除に当り現在迄有効な夜11時以降の市町村への立入は禁じられることには変わりはない」「オフ・リミッツの立札のある特殊地域には軍関係者の出入りはさせないことに同意した。これに対し市町村長は各村および民警察と協力して売春行為を滞りなく防止することにも同意した」ともあります。
米軍の売春取締りと赤線の設置を同時に言うようなダブスタはわかりづらいですが当時はそんなもんで、これは沖縄の行政側もそうです。

協定書は「中部地区各市町村長(特殊地域のない西原、中城村を除く)と小禄村長」がライカムを訪れ署名しています。西原・中城以外は特殊地域が存在し、衛生上の問題があったために日没以降立入禁止(オフ・リミッツ)になっていたが、その解除のために各市町村長が協定書にサインしたということです。
後段の那覇と真和志の対応ですが、那覇は解放が進んでいるものの区画整理がまだされていない時期です。

参考:グダグダ(β) 旧那覇地区の解放順序 (52年までに大体返還されている)
参考:グダグダ(β) 崇元寺通り(58年)  (泊エンジニア部隊そば、十貫瀬)

真和志は栄町に料亭や旅館がありますが、これらは米軍相手の赤線とは違うように思えます。那覇に米軍がいた時代も売春地帯はあったと思われますが実際どうであったのかの資料は探せていません。
宮里栄輝真和志村長が「那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もある」と言ってるのがだれの意向なのかはよくわかりませんが、時期などを考えると興味深いものはあります。

真和志村北部

アジア歴史資料センターの「第2253号の2 12.4.28 公有水面埋立に関する件」にある地図から真和志村北部〜浦添を切り出しました。
ここでの図は那覇地図(昭和初期?)での図より画質が悪いのですが広範囲になっています。

第2253号の2 12.4.28 公有水面埋立に関する件
【 階層 】防衛省防衛研究所>海軍省公文備考類>⑩公文備考等>公文備考>昭和>昭和12年>公文備考 昭和12年 J 警戒計画 巻10
【 レファレンスコード 】C05111092500【 画像数 】12


那覇地図(昭和初期?)の図は安謝で切れてしまっています。


安謝の対岸(勢理客)が造成されて水田になったのは昭和11年以降のことのようです。
参考:グダグダ(β) 勢理客の水田
参考:グダグダ(β) 安謝とシュガーヒル (米軍空撮の浦添から那覇を望む写真)

戦前の下水道

「沖縄の下水道よもやま話」から戦前の部分を抜粋します。

昭和10年12月、那覇市の下水道事業を実施するため、天妃町に臨時下水道事務所が置かれた。臨時下水道事務所の組織は経理係と工務係の2つの係から構成され、事務所の所長は市の水道課長が兼務するようになっている。
那覇市の下水道事業は特別会計で、昭和10年度の下水道築造のための予算規模は「弐満弐千五百円」であった。
昭和10年に着手された下水道事業は、昭和13年末には、排水管の延長15.9キロメートル、総排水面積90.43ヘクタールの管布設工事が完成している。(中略)
せっかく着手した下水道事業も4年度限りで、昭和14年度からは中断している。理由は、市の財政難も一つであると思うが、特に当時のわが国は、軍国主義で富国強兵をモットーとし、軍事力の増強に意を燃やしていた時代のため、直接、軍事に関係のない下水道事業にブレーキがかかったものだと思っている。
このようなことから那覇市の下水道事業も時代の波には逆らえず、遂に共用開始ができないまま、築造された下水道の全施設は、第二次大戦で破壊されたのである。
沖縄の下水道よもやま話/宮城保信 p4、5(抜粋と編集)


最後の「遂に共用開始ができないまま」というのがよくわからないのですが、工事は進んでいたが使用されなかったということでしょうか。また「供用」が使用開始の意であるかと思うのですが、抜粋は本のまま「共用」にしてあります。

「沖縄の下水道よもやま話」は戦後下水道建設に関わってこられた著者がまとめられた戦後沖縄下水道史ともいうべき本でした。著者の宮城保信さんはコザの都市計画課長、下水道課長から沖縄下水道公社、復帰後は県の土木や下水道関係を歴任されたようです。

住吉(戦前)

アジア歴史資料センターの「第2253号の2 12.4.28 公有水面埋立に関する件」から住吉〜西新町一帯の地図です。6分割された那覇の地図の隅に「那覇内港 1/5000」としてある部分のみ切り出しました。

第2253号の2 12.4.28 公有水面埋立に関する件
【 階層 】防衛省防衛研究所>海軍省公文備考類>⑩公文備考等>公文備考>昭和>昭和12年>公文備考 昭和12年 J 警戒計画 巻10
【 レファレンスコード 】C05111092500【 画像数 】12


良く見ると風月楼の様子がわかります。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

01 2026/02 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]