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トンネル周辺

識名トンネル周辺
開通したトンネル周辺の図です。真和志市誌の図にかかれた道筋を書き込みました。
左側の赤い点トンネル開口部で、赤い点をつなぐように道路が造られ右側の点からさらに道路は延びてゆきます。

上間・識名・石田ともに古い集落ですからそこを中心として道のネットワークが作られているのがよくわかります。現在のように首里方面へすぐに行くことは出来ず金城町から川を渡ったり図の右側を大回りしなければ行くことが出来ません。

左上の×型の道路の上あたりはケブン川原となっていますがケブンジャーバルと読むのでしょう。自分はキブンジャーと表記してあった本を最初に見たのでキブンジャーと表記していますが表記の揺れがあるのかもしれません。
識名・繁多川は豊富な湧水がたくさんあります(現在も枯れていません)。


トンネルの感想はよくぶち抜いたもんだよなーってとこです。環状へのアクセスは曲がりくねって細い道とはたぶん比較になりません...
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山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)

山川原・淵下原・東原
上間の山川原・淵下原・東原・矢旗原です。
ピンク色は仲井真で329号線から北は境界がはっきりとはわかりません。ですがそのほかの国場や上間との境界は川が境になっていてわかりやすいです。

変電所から上の部分は昔の道筋のみを表示してみました(真和志市誌/戦前における真和志村の土地を参照)。
現在の首里に抜ける道がなかった頃はどういう道筋だったかというと、変電所の側を登ってゆく道を登り体育館の上で180度回り込んでゆく道がそのまま旧道で、このターンから識名園に抜ける道や真地団地に向かう道もそのまま旧道のようです。
このターンも現在識名トンネルが工事中ですから現在の姿がいつまであるのかはわかりません。
那覇から変電所までの329号線の道筋もほぼ旧道のままですが現在の交差点付近ですこし整理され、橋が架かる場所の変更で道路が直線的になっているようです。

フチサ(フチシヤ 淵佐)で書いたようにフチサは崖下の意です。
>真和志村字上間の淵下原(ふちしゃばる)等みな同じ義で、方言「フチ」とは、懸崖の義でフチシヤは崖下というに当たっている。
上間の集落に向かって細い道が崖の側を登ってゆくところが淵下原です。

銘苅周辺

湿地
区画整理以前の現新都心です。
区画整理以前なので丘が削られていないません。銘刈川・湿地が谷で周囲に丘がある地形が確認できます。
またこの湿地周辺は遺跡が集中しています。

学校はピンクで表していて中央右側の切れている学校は興南高校ですが、返還前はその横にある道路へバイパスから右折するのには立体交差を使いました。現在はループ部分が撤去され新都心へそのまま直線的に進むようになりました。

地形の変化についてはこちらのサイトからもうかがうことが出来ます。

シュガーローフの戦闘  (日本軍名称 安里52高地の戦闘)
http://www.okinawa-senshi.com/sugarloaf-n.htm


返還直後に新都心地区に立ち入ったことがあるのですがそのときはまだ住居と道路の舗装が残っていました。そのあとしばらくして両方とも撤去され、その後は放置状態が長く続きました(一部は工事していたようですが)。
当時は小さな丘のたくさんある地形だなと思っていましたが過去の地図を見るとそれが正しかったと確認できます。道に迷って湿地にはまり込んだこともありましたし崖から落ちたこともありました(笑)。
当時は安里の寺の裏、古島あたりから入れたように記憶しています。

椰子と南洋杉

たまには人から聞いたヨタ話を...

庭木にも流行り廃りがあります。
果樹が流行って結構植えられたけど実がならないので伐採されてしまったとか、黒木を植えるのが新築のステータスだったとか。果樹は結構肥料やらなんやらシビアで難しいらしいです。
あと蘭の温室作ってる方も昔は結構目にしました。

本題ですが昭和の中期頃ヤシの木を植えるのが流行ったらしいです。
街路樹に使われる椰子ならともかく、巨大化する椰子をあまり丈が大きくない時期に植えた人がけっこういて、家の丈を遥かに超えるくらいに育った椰子が昭和の那覇の風景写真には散見されます。
うちの近所にもアパートの4階くらいの椰子があって、台風が過ぎるとでっかい葉が周囲に落ちてたもんです(笑)。平成に入った頃にはほとんどみな伐採されました。

それと南洋杉。
これも普通の丈なら手がかからなくていい樹なんですが、巨大化します(笑)。那覇市内には素人では手が付けられなくなった大きさの南洋杉が散見されます。
ガジュマルやら赤木はどうにかよじ上って枝を落とすことができるような樹形をしていて素人でもどうにかなるのですが、椰子や南洋杉はまっすぐ伸びてゆくだけです。住宅街に三・四階建ての高さの樹があるとさすがに怖いですよ。台風も結構くる地域だし...
オチはない話なんですが植木屋も考えて売れよと(笑)。

沖縄は広葉樹が多いので横に太ってゆく大木はありますが高さがある大木は珍しいですからね。首里の大アカギも内地の大木からしたらそれほどの大きさではないでしょう。
まぁ戦争で丸裸になったってのはありますがいまだに街路樹も少ないし意外と緑は少ない島ではあります。

前原・溝原・後原・長田原(国場)

国場の原名(ハルナー)の続き。出典はすべて国場誌です。

前原(別名 アタンジャ)
 •赤山(カーチラ)前原の中にある河川敷の名称で昔はカヤの採取場所であった。

溝原(ンズバル)
ンズはその名の通り水の通る溝の意味であろう。「球陽」には今から二百年前「仲井真の西側から長さ1,2歩、幅2尺、高さ2尺の溝を掘った」とある。
溝原の北側と長田原の一部を含めて銭又(ジンマタ)と称する俗地名がある。現在の上間タンク敷地の所で松の苗代が二筆あった。銭又毛には子供が亡くなったときの仮埋葬するところが会ったが仲井真の方々の利用が多かった。


後原(クシバル・ウィーバル)
クシ・ウィーにはいずれも包囲、位置を洗わす地名でオキナワの小字名、小地名ではもっとも多い地名である。

長田原(ナガタバル)
地名の意味は長い田んぼのあるところであり、大字地名では読谷と宜野湾に同名がある。


国場の原名はこんなとこでしょうか。
溝原の「ンズ/ンジュ」が水の変化だというのも発音したら何となく納得。馬(ウマ)が「ンマ」であるのと同じようなもんですかね?
あと現在の尚学院のある丘は祝嶺毛(セークミモー)と呼んでいたようです。そのあたりに弾を撃ち込んでいた射的場(射撃場)のことも国場誌より引用しておきます。引用先ではクンチャミ毛と呼ばれていますが、あの辺りに祝嶺毛とクンチャミ毛がどのように存在していたのかは自分はわからず、沖大辺と尚学院辺を呼び分けていたのか同じ場所の別名かどちらかかと思われます。

もともと現松川小学校ちかくにあった日本軍の射撃場がいつの頃か勝良又原に移動してきた。
通称壺川、松尾集落の一帯に土を盛り上げクンチャミ毛の斜面に撃ち込むようになっていた。射的場はヒータイ橋から一直線にほぼ南北であった。参考図1 参考図2
国場誌 p335

垣新原(国場)

国場の垣新原(ガチェーラ原)について国場誌より引用します。

垣新原(ガチェーラ原)
国場原の西側に位置し、国場消防署のあたりから南下し国道に至り旧電柱通りを北上して消防署前の通りを結ぶ間を称する。そこには殿内家(トヌチモー)があり、その裾野が農地として利用された。カチェーラの「ラ」は場所を意味するがガチェーはなんだろうか。
 下方をワジャーといい、瓦屋原の一部も含まれる。傾斜地が多い中で、ワジャーの方はわりと平地で農地としても適している。ワジャーは湧水の意味。
 ここにあったヒータイ墓「桜花の塔」は糸満市摩文仁に合祀された。
国場誌 p91


旧電柱通りは今は真玉橋に向けて下る大きな路に取って代わられました。真玉橋から北上して突き当たる大きな交差点の道のうち一つだけ222号に向かう道は細いですが、あれが今も残っている電柱通りの道筋です。
ガチェーラの「ラ」は寄増原・洗田原・宮城原でも出てきた洗田原(アレーラ原)と同じようです。
  >洗田原(アレーラ原)
  >現在では住宅地に代わり昔の面影はない。
  >アレー(荒れたところ)ラ(地の意)ではないだろうか。洗田原は当て字であろう。

那覇港

pdfの紹介です。那覇港の成立と その機能維持
そして引用。

それによると、人々が那覇港の上流(国場川・饒波川)で木々の伐採・開墾を行い田地を開いたため、川筋も変わり、土砂が那覇港に流入している、と述べている。この状況を受け、中国からの冊封(1719年冊封使来琉)を控えた国王尚敬は、家臣に那覇港浚渫を命じた。
工事は那覇港上流の田地を廃し、川底の泥土を浚い、川筋を元に戻した。次に渡地から三重城との間に5つの橋を架け、「西の海」 現(西2・3丁目付近、明治20 ∼ 30年代にかけ埋立)と港内の潮の流れをはかった。さらに、久茂地川に架かる橋を改修し、上流からの水の流れをよくした、とある。特に橋の築造は泥土堆積を防ぐのに効果があったようで、前述の『那覇築港誌』には、明治 40 年の工事着工以前の那覇港の様子を
「(渡地から三重城に突堤至る浮道)を築き、水路を狭め、水準を高め、流力を大ならしめ、潮流の作用に依り、上流より下る土砂を港外に流出せしめ、以て其湾内に沈殿するを防ぎ」
と述べている。


引用部分は意味を損ねないようにかなり省略してあります。
なんで引用したかというと当たり前のことなのに思いつかなかったことがありまして、それは「水路を狭め、水準を高め、流力を大ならしめ、潮流の作用に依り、上流より下る土砂を港外に流出せしめ、以て其湾内に沈殿するを防ぎ」ってとこで、そりゃ水路を狭めりゃれば流れが速くなって泥は沈滞できないわな!といまさら驚いたわけです。
それとpdf内の図を引用しておきます。
那覇港(1700年)

勝良又原(国場)

松尾壺川
図は勝良又原の割当地です。これについては国場誌の引用で説明します。
※松尾と壺川の境界線は正確ではありません。

勝良又原(カツラマタ原、俗称カンダバタ)
 カツラマタはカツラが境界を意味する限(カジラ)で、又は又状の地形であるので、字与儀との字境にあることがわかるが、勝良は単なる当て字で意味はない。同じ方言といえるカジラマタは、カジラ又(名護市)、加次良俣(名護市、大宜味村)などがある。「球陽」には加津良真多原と当て字されている。
 戦後は割当地と称し、松尾、壺川、壷屋等の住民が、自分の地への居住がかなわず一時的な処置として、行政側の一方的な指導のもとに勝良又原に住居を構えた。土地の境界確認もないままに住宅が立ち並び、境界の確認混乱地域になり、現在に至っている(寄宮中の裏門向かい側付近)。
国場誌 p90 


国場の原(ハル)の図はこれ
そして勝良又原近くの地元地域への居住がかなわなかった住民の居住区域はこんな感じです。 
図の左上あたりにヒータイ橋(兵隊橋)と呼ばれた小さな橋がありますが、戦前は日本軍がこのあたりから現沖大にむけて銃を射つ訓練場でした(黒矢印方向)。この訓練場は寄宮国映通りと昔は呼ばれていた通りとほぼ重なります(ちなみにこの通りには寄宮国映と寄宮琉映の二軒の映画館がありました)。

昭和の終わり頃(?)寄宮中学校から与儀タンク跡にむけてバイパス道路が通りこのあたりの風通しがだいぶ良くなりました。今でもバイパスからこの辺りを見ると木造平屋が密集していますが、ところどころは空き地になっていたりもう住んでいないと思われる住宅もちらほら見えます。
このあたりももうしばらくしたら戦後の風景が消え去るのでしょう。

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