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真嘉比の再開発

真嘉比の再開発が進み景観も一新されつつあります。
道が一つ消滅したのをご紹介。

頭上で赤で囲んだ部分、真嘉比小学校北から330号へ下りる道が330号に出入りできなくなりました。大道から上って行く道は上・下大道原の境界で、真嘉比小学校の南からは真嘉比前原になります。現在のDFSあたりは真嘉比西原で真嘉比でした。
マカンミチは安里のオキナワの嶽付近から北上して安里集落の後方を通り、ケラマチージのそばを通り330号を越えて真嘉比に入ります。そして真嘉比川原(マカンジャーラ)の北を通って環状二号へ出ます。マカンミチは多く真嘉比や古島の原(ハル)の境目になっています。

現代の暮らしの視点では、消滅した道は中央分離帯があり右折場所が限られる330号で真嘉比集落に入って行ける唯一の道でした(北上方向への進行)。また真嘉比からは330号に出て北上(右折)も南下(左折)もできる便利な交差点です。
バイパスを安里から北上するとこの交差点まで右折できる箇所はありません。同じように真嘉比側からは右折できる箇所はこの交差点と興南高校そばの高架しかありません。
図では黒で強調した新都心の道路が直線的に延長されて坂下方面まで直進しますが、規格が大きめの道路なのでこの道路の周辺では同じようなことが起こります。

細い道が抜け道になっての慢性的な渋滞や、生活道路への車両の進入を考えるとしょうがありませんし新しい道路の方が事実便利です。
ともかく変化の記録ということで書き留めておきます。
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船増原・宮城原の低地

海岸線の変化の続きみたいなもんですが...

那覇の標高図に道をマッピング。
那覇標高図


与儀公園の宮城原、那覇署の宇蘭原、船増原の与儀市場通り、そしてガーブーのそばはすべて低地になってるのがわかります。
ガーブーの左側には裁判所・城岳の高台、松尾・山形屋裏の高台が続きます。そして右手には真和志支所・壷屋・牧志部落の高台があります。
1700年以前の海岸線
那覇の古海岸線
戦前のガーブー流域を写真で見ると見事に何もありません。また与儀公園・神原小中の試験場用地一帯は湿地で戦後暫く何もありませんでした。このあたりは真和志民俗地図でもほとんど空白になっています。
ガーブーは試験場用地の西原(ニシバル)を過ぎると神里原の真ん中を通り水上店舗が並ぶ一帯に入って行きます。
樋川原・神里原
図でも左の松尾、右の壷屋が高台になっているのがわかります。

関連:河川 ガーブー

仲井真原・前原(仲井真)

仲井真原
仲井真原と前原です。
仲井真原は東に国場溝原、北に上間底田原原、西に上間山川原と接しています。前原は仲井真原の南で昔の川の流れを境界にして上間の長崎原などと接しています。
図では仲井真原と前原の境界はピンクで示しています。
図は真和志民俗地図と「戦前の字仲井真民俗地図」を参考にしています。集落内の畑や拝所などの分布は後者の地図を主に使っています。

図で緑に着色されている箇所は畑、赤が拝所関係、青が井戸で大きめの青い場所はクムイ(小堀)です。
集落上方のアシンミ毛にはアシンミ御嶽があります。ちなみにアシンミは安次嶺(あしみね)です。
仲井真原も古くからの集落の形を残しています。中心部はそのままで周辺の畑だったあたりが宅地化したくらいでしょうか。前原との境界線の道がメーミチ、直角に交差し集落を南北に走る道がナカミチです。

国場川そば前原の329号線(与那原街道と川に挟まれて道路で区切られた部分、国場十字路の角付近の俗称は古島原と呼んだようです)。川そばの前原はすべて畑で道路沿いにサーターヤーが二軒存在します。

大洋劇場周辺


図は農連市場そばあたりにあった神里原の大洋劇場周辺で、参考にしたのは真和志民俗地図、ゼンリン地図、昭和26年の那覇図です。
まずこの図を図1としたいのですがこの図には真和志民俗地図に存在する道を書き込み、ゼンリン地図から大洋劇場を書き込みました。
大洋劇場
そして図2は大洋劇場の周辺をさらにアップにしました。
図2はさらに図1に昭和26年で存在する道筋を書き込み、赤で昭和26年当時の住所の区分けを(かなりいいかげんに)書入れてあります。那覇劇場も書入れてありますがこれはゼンリン地図を参考にしました。強調してあるラインは壷屋(那覇)との境目です。
図1、2とも大洋劇場から開南バス停まで通じるバイパス道路が開通する前の図ですが図1はバイパス道路を消さずに残してあります。開通時期は確認していないのですが60年代に入ってからの開通だったという記録を読んだ覚えがあります。

後年サンライズ那覇から農連市場までの地帯はバイパス道路によって分断されました。分断の遥か前である昭和26年ではサンライズから伸びる道路により二つに分割、さらに垂直に分割されて碁盤目のような区分けになっています。
大洋劇場そばから丸国マーケットまでは道路に沿って三分割されていて、両方のケースともに区分けは現在の土地利用とは違っています。

そして昭和26年のこの一帯は神里原の最盛期です。
地図には書入れませんでしたが大洋劇場の斜め向かいには山形屋が存在していました。

参考:経済の背景(2)
戦前の1922年に開業した山形屋呉服店沖縄支店が始まり。その後、沖縄戦を経て、1950年に元社員により当時の中心地であった那覇市神原に移転。1955年には国際通り沿いに移転した。
沖縄山形屋 - Wikipedia

樋川原・神里原

樋川原・神里原
開南周辺の樋川原(ヒガワバル)と神里原(カンザトバル)です。黒で境界を示していますが怪しい所は灰色の破線にしてあります。
参考にしたのはゼンリン地図と真和志民俗地図です。

まず神里坂(カンザトビラ)がよくわかりません。
裁判所から仏壇通りまで下り、そこから斜めに曲がってガーブーに突き当たる道筋になっています。民俗地図ではBのほうが近い道筋です。
自分はBっぽいなと思うんですがよくわかりません。><
現サンライズ那覇(新栄通り)から上がって来る道筋は開南バス停の後ろ側を通り樋川原と神里原の境界の道に繋がっていたと考える方が自然です。

それと樋川原を横切りガーブーに合流する流れですが大体の位置を書いてみました。
裏道と同じような形をしてますのであそこに溝か暗渠があると考えてよいかと思います。

神里原の右側上方の壷屋との境界が解らない部分のすぐ側には下ヌカーという井戸がありこの場所が特定できればハッキリすると思います。そして現在スージまで見られる地図がないので確認できないのですが境界線もスージ沿いになっている気がします。

真和志民俗地図は昭和初年頃を想定して作られているそうなのですが、樋川原と神里原で字樋川を作っています。北側は現松尾公園周辺の字松尾、西側は字二中前、南は字与儀の西原と船増原と字楚辺の真地原、東側の壷屋町は那覇です。
旧真和志村は通常○○町○○原と呼ばれるような○○町の部分を字○○として単位にしています。これも変化があって簡単には言い難いのですが、大道や松川のように現在使われている地名はほぼ字○○としてあります。

イバヤ橋

与儀集落
与儀(ユージ) 2
>射撃場側の「イバヤ」ですがなんであるのかわかりません。
>しかしその北に存在する橋は真和志民俗地図ではイバヤ橋と称されていて関連があると思われます。
>またこの橋はヒータイ橋(兵隊橋)とも呼ばれていたようです。

と書いたのですが少し関係のあるような(?)記述があったので引用してご紹介。

その旧番所からの村道を列挙すると、
(1) 那覇に通ずる中央線道路は、番所から真和志尋常小学校前を通り与儀射的場、振興橋(別名射場[イバ]ヤ橋)を渡って与儀試験場用地を横切って神里坂(カンザトビラ)を上り、汪樋川、城岳、泉崎を経て泉崎へ至る。神里坂は高い場所で見晴らしがよく一休みする所で有名だった。
上間誌 p48


日本軍与儀射撃場は射的場とも書かれていることがあります。振興橋は真和志民俗地図では大石原の北部に存在するクチャガーラグヮーにかかる橋として示され、射撃場を横切る橋はイバヤ橋と書かれています。
一番上の与儀集落の図では与儀射撃場の外形を大分はしょって書いていて、じっさいは黒く塗ったイバヤのようなくっついた小さな四角形が左右にいくつかあります。射撃場に俗名のイバヤ(射場ヤ)を付記していたのを一番近い四角につけられた名称だと自分が勘違いしていたと思われます。多分イバヤは「射場屋」でしょう。
話が逸れたのですが、上間の番所から坂を下り、寄宮十字路の真和志小前を通ってから大石原に回り開南の神里坂を上るという道筋は不自然です。図は神里坂までを書き込みました。

図の上にあるのが民俗地図での振興橋です。

神里坂(カンザトビラ)のビラですが、
傾斜道を指すに、サカ地名は皆無で、坂道にはヒラ地名が付与されている。
坂道を下から見るのがヒラで、上からはサカと呼ばれる。

原(ハル) 毛(モウ) トー引用したようにサカ/ヒラのヒラの変化したビラです。
ちなみに神里坂から汪樋川周辺の小さな一帯が樋川原(ヒガワバル)、その右手の一帯が神里原(カンザトバル)です。

山川原(上間)

山川原(国場)
上間山川原です。
左となりは仲井真で、山川原との境目がずっと解りませんでしたが上間誌を参考にしてやっとわかりました。上方の当り原とはクワディーサバンタの崖で区切られ、全体的には当り原から国場川に至る傾斜面にあります。

山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)

矢旗原(上間)

上間の最東端にある矢旗原、現在の南風原高校付近です。
矢旗原
参考にした図は上間誌770ページの終戦直後の土地測量図です。このページには各原別に土地区画が記載されていて「上間の原別図(1949年〜1651年実測)」とも書かれています。

矢旗原の南部の境界線は南風原村との村境になっています。それ以外の境目は川を境目としているのでハッキリしています。現在の上間交差点の道筋は存在せず、現在のホンダ後方に斜めに橋がかかっています。そして現在の329号あたりは鉄道が走っています。
鉄道に関しては下のページなどが参考になります。

与那原線の今 http://www.geocities.jp/kikuuj/zatugaku/keibin/yonabarusen1.htm

鉄道のざっとした図。
戦前鉄道

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