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那覇商業学校跡

那覇商業学校
現在の那覇中学の位置にあった市立那覇商業学校です。
空撮写真が米軍撮影の昭和20年、左下地図が昭和4年、右下が現代です。
この那覇商業学校横から兼久にかけては満ち引きによって陸地化する塩田だったせいもあってはっきりとした輪郭を描きにくいです。どの地図を見ても微妙に違っています。
兼久浜・塩田

赤面原(アカチラバル)の周辺は畑ですが、アカチラバルは耕作されていない荒れ地のようです。那覇商業学校前を横切る若狭町大通りには電車が走り、その側には人力車の駐車場があり車夫がたむろしていました。
那覇商業学校が旧那覇の一番はずれでここから潟原側は一気に寂しくなります。電車が走る道沿いに兼久を通って泊高橋にゆくか、長虹堤を渡るか前島に入って板橋を渡るかして牧志にゆくかしか道がありません。
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若狭町 古地図

若狭公民館の高齢者学級で作成された本があり、その付図に昭和19年の10・10空襲直前頃を想定して作られた地図があります。
うきしま大学「今残す若狭町古地図」

古地図というには新しすぎる気もしますが地域図の最新版ということで歓迎したいです(このブログではこの図を「わかさ民俗地図」と呼びたいと思います)。
この図の下側に ※基本にした地図「番地入地形入 那覇市全図 昭和4年」 という注意書きがあります。
地域の民俗地図には妙に正確なものと手書きのものが入り交じっていて「若狭町古地図」は正確なんですが下敷きになっている図の名前がわかりました。

自分が確認している戦前の民俗地図は、上之屋、壷屋、牧志、安謝、若狭、仲井真、久茂地です。首里もあったような気がしますが範囲外なのでわかりません。
改めて各地図を比較してみると手書きのものでも元の図は「番地入地形入那覇市全図」だったんだろうなとおもわれる特徴が残っています。民俗地図は那覇市主催で制作されていると思われるので下図は同じものが使われているのでしょう。
このへんも那覇市史ニュースを見ていけば書かれているのかもしれません(読んでいない)。
ともあれ参考になりそうな資料があるということが確認できただけでもありがたいです。

【追記】web上に図の画像(一部)がありましたので転載します。

掲載元は下記アドレスのページです。
http://blog.goo.ne.jp/hirayanitumogenki/e/a3d340765ac087b42168e811946469d3

天から落ちたる糸満小

硝子工場

辻原付近の前田硝子工場の図に「天から落ちたる糸満小の墓」というのを書入れてあります。
※図は那覇民俗地図を参考にしてあります。
とりあえず天から落ちたる糸満小の説明を引用します(引用元をメモし忘れてしまいましたが多分なにかの辞典だった記憶があります/すみません)。

沖縄各地で歌われた童謡、降天伝説にまつわる歌。歌詞は、

天から落ちたる糸満小
幾人揃って(イクタイスルウテ)落てたがや  
三人揃うて(ミッチャイスルウテ)落てたんど
落てたる所やまーやたが
波上城(ナンミングスクノ)のついたっちゅー

若狭町海岸に雪の崎という出っ張った岩山があって、天から落ちた<天部人>アーマンチューの足跡というのがあり拝所もあった(取り壊され今は無い)がこれから発生したものかどうかは不明。


ユーチヌサチ・スーヌサチで触れていますが雪の崎は現在の若狭小学校で潮の崎(スーヌサチ)が辻原墓地のあたりの岸壁。
ユーチヌサチ・スーヌサチ
那覇民俗地図では最初の図の位置に「名所・旧跡・拝所」のマークで「テンカラウチタル糸満小の墓」として示されています。つまり引用した説明と那覇民俗地図の説明が違っているんですね。
というような事情で図は「那覇民俗地図での位置」になっているというのを了解願います。

追記:コメントで現在の波之上自動車学校であるという情報を頂きました。戦前のあの位置は海になります。

重民町

まず当間重民のこと。重民は市長在職中に亡くなっています。

当間 重民(とうま じゅうみん、1900 - 1952)は、戦前の沖縄県・沖縄諮詢会・沖縄民政府時代の政治家で那覇市長(1949~52)。
第2代行政主席の当間重剛の弟で、父は初代那覇市長の当間重慎である。
当間重民 - Wikipedia


重民町と呼ばれた埋立地域は海側の一帯になります。

重民町 那覇市の旧町名、現在は若狭3丁目、前島3丁目にまたがる。夫婦橋、夫婦岩より東の地域。1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際埋め立てられた地域。町名は当時の市長当間重民にちなむ。
住民は戦後軍用地に接収された垣花町の出身者が多い。


重民町として議決された事が市民の友に掲載されていました。市議会での決定は1955年12月であったようです。

△那覇市行政区域の一部町の区域を変更すること及び新たに区域を画する事について(可決)
(イ)泊港北岸埋立地5504坪を高橋町2丁目の区域とする。
(ロ)泊港南岸埋立地A地区32157坪を前島町2丁目の区域に入れる。
(ハ)重民町 前々市長当間重民氏の功績を讃えて、泊南岸埋立地B地区36961坪を住民長として画する
市民の友 1956年1月1日 第57号(抜粋)


以下関係なく。
前島移転地
重民町はこの図よりもっと海側です。この図の範囲は多く牧志街道や美栄橋の立ち退き対象者に配分された事がわかります。

みなと村資料からの数字など

楚辺一区 1886 392
楚辺二区 1751 379
松尾区   515 103
壺川区  1004 205
美田区   356  82
奥武山区  438  97
ペリー区 1738 333
---
総計   7638 1591

p13の「各区別人口並ニ世帯数」からで人口、世帯数の順。
男女比は「810/941」の楚辺二区、「477/527」の壺川区のみ約10%以上男女どちらかが多い。

1948.4〜1949.3迄の結婚・離婚・出産・死亡調べ(p14)。
結婚88、離婚12。
出産(男)130、(女)140の合計270人。
死亡(男)31、(女)26の57人。

就学児童数(p16、p17)。
初等科 1010
一年から「208、206、203、167、155、153」
中学 1495
一年から「169、142、89」
高校 69
一年から「17、18、34」
幼稚園(6、7歳) 146
沖縄の団塊の世代はこの時点で未就学児童。

「過去一ヶ年段階別配給人口調べ」(p20)から1948.5と1949.4を取り出す。
1〜2歳 418 372
3〜5歳 381 517
6〜10歳 796 936
11〜20歳 912 1407
21〜60歳 1061 1480
60歳以上 279 357
---
換算人口 7009 8574
その他の項目には妊産婦、軍労務、軽労務、中労務、重労務がある。
戦後生まれに人口ピークがあるはずだけど数字からは確認できない。

p15の業務一覧表(1948.3と1949.3)から一部のみ抜粋。
民政府が25名(1949)
市町村が63(1949)
農業が20(1949)
水産業が16(1948)、74(1949)
商業が7(1948)、36(1949)
軍作業が2588(1948)、2130(1949)
圧倒的に軍関係が多い。

家畜家禽頭羽数状況調(p24)、表記は48、49年の順。
奥武山区と美田区は両年ともにヤギ豚ゼロ。
豚 21 101
ヤギ 18 28
鶏 741 1350
アヒル 32 75
兎 250 718

みなと村の出身別人口

「みなと村のあゆみ」の「各市町村出身別人口比較表」(p12)から抜粋です。
数字は「出身市町村名 | 1947.5(人)/1949.3(人)」で、総人口は47年の6469人から49年には7639人に増加しています。そして1952年になるとみなと村は18465人、(那覇)1〜11区は42480人の総計60945人が総人口です(那覇市史)。49年から52年にかけていきなり倍以上に増えていますが1948年に従来地域に加えて「真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入」したためだと思われます(みなと村のあゆみ p155)。

1947年時点で90名以上いた出身地は以下四箇所。
那覇市 | 4817/5376
首里市 | 159/161
真和志 | 418/480
中城 | 92/14
 <------急減

50〜89人までは以下六ヶ所。
知念 | 76/36
佐敷 | 68/18 <------急減
大里 | 62/38
羽地 | 67/7 <------急減
本部 | 65/32
国頭 | 56/73

著しい増加をしたのは以下十箇所。離島は程度の差はあってもだいたい増加です。
東風平 | 40/129
豊見城 | 33/241
兼城 | 4/66
三和 | 30/88
具志川 | 32/134
名護 | 7/45
今帰仁 | 12/56
久米島 | 17/149
粟国 | 14/85
宮古 | 9/41

大幅減少は以下五箇所。
羽地 | 67/7
宜野座 | 36/3
佐敷 | 68/18
中城 | 92/14
石川 | 41/5
ある程度の数が来ていて半分以下になったのは、本部、知念、大里、屋我地。

八重山は4→4で変わらず、日本人は0から5へ、大島は0から10になりました。
屋我地は7人来ていたのが0人になっている唯一の例です。
増加した久米島と粟国は那覇港から出発する離島ということが関係あるのかな?

道路沿い

カテゴリに新聞記事を追加。
文献に引用された新聞記事や直接拾った記事等をこのカテゴリにしたいと思います。

今回はみなと村のあゆみから引用します。
みなと村のあゆみは「特別行政区域 みなと村のあゆみ<資料編> -一九四七・五〜一九五〇・七-」が正式名称(?)です。自分が勝手に略してるだけですが。
資料編とついているだけあって村の組織図や人口や行政等についてのみ書かれており、またその資料も多くはなく新聞引用と年表等が本の大半を占めています。ですが資料は死亡/出産、出身地別統計、人口など暮らしぶりをしのばせる材料がたくさんあり興味深いものがあります。
ともあれそのみなと村のあゆみに抜粋されている新聞記事から引用します。

1948.11.5
自由取引 愈々実現 起業は免許制・配給物資価格は島内類似生産品に準ず

商店の指定位置
同日発行の指令38号では外国人が琉球人サービイス又は指定重要物資以外の商品を購入先とするときは 次の道路沿線の認可市場に於いてのみ行うよう規定している
•第1号線路(ママ)
那覇空港基地より恩納村のMPチェックポイント間
•第13号道路
与那原の三叉路より屋嘉のMPチェックポイント間
•第44号道路
佐敷町新里より那覇間
•第5号道路の舗装部分のみ 
宜野湾村瑞慶覧からコザ地区胡屋間
•第22号道路
北谷町桑江前から桃原付近まで
•第10号道路
屋慶名から勝連村平安名の中間付近まで


48年の那覇以外の状況はまったくわかんないのですが基地間を結ぶ大きな道路沿いで許可されたエリアが指定されたということでしょうか。
現在勝連なんて寂れまくっていますがそれでも自分が子供の頃海中道路にドライブに行く途中はかつて栄えていた雰囲気がありました。もちろんホワイトビーチの門前町だったせいもあるでしょうが早くに外人相手の商業が解禁されたことも関係あるのかななどとも考えてみたり。
結論としてはわかんないし範囲外なので調べもしません。

東寿寺(堂小)

那覇の細民で那覇の下層住民について触れました。

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。

那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だ
那覇市史 通史2 p180


堂小(以下ドウグヮー)なんですが那覇民俗地図を見ると<東寿寺(堂小)>となっています。ドウグヮーの側の屋敷だから堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)なんでしょうね。
東寿寺(堂小)
那覇商業高校の向かいの道を下っていった角に拝所のようなスペースがあり、そこが現在の東寿寺跡ですが、戦後の那覇市区画整理で現在地に移転しているようで戦前の敷地は検証が必要なようです。

堂小屋敷に住んでいた久米人(クニンダ)の経済的苦境や貧しい暮らしがうかがえる小説として「奥間巡査/池宮城積宝」があります。そこでは△△屋敷と伏せられていますが想定したのはこのドウグヮーヤシキだったかもしれません。小説ですので証拠にするにはアレですが青空文庫で読めますので覗いてみて下さい。少し前に沖縄文学全集の小説の巻に収録されてもいます。
出だしはこんな感じ。

琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種[#「特種」はママ]部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000868/files/2689_20502.html

クニンダに限らないやるせない話でアレなんですがおすすめはします。

参考:グダグダ(β) 堂屋敷と堂小屋敷

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