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大味知事の王様振り

歴代の沖縄県知事で評判の悪いのは奈良原知事と大味知事です。奈良原に関しては評価すべき点も見直されて来ているのですが大味知事に関してはそういう見直しがありません。
沖縄県知事一覧 - Wikipedia
大味久五郎  1914年(大正3年)6月9日 - 1916年(大正5年)4月28日
大味久五郎
※画像は沖縄県立図書館の「貴重資料デジタル書庫」にあった「沖縄県人事録」からダウンロードして切り出したものです。

琉球新報にこっぴどく叩かれている記事がありましたので罵倒部分を引用してみます。

誇大妄想の独り天狗
琉球王○琉球総督位な見識
弓張月の為朝公さへ斯程まではと思ふ位の威張り方
34貫の図体はすべて虚仮


ひどい(笑)
宮古島での行動はこう描写されてます(ところどころ意訳・現代文)。

32貫の図体はヒラリとばかりに荷車へうちのり、ものども来たれと鞭を執って、○ねき随員の人々はザブリザブリと潮をつま立て歩かせるのに、乃公ひとりちょこなんと座布団に大晏座をかき、口には葉巻を輪に吹きつつ牛に牽かせた荷車はキウ五郎キウ五郎と渡り行くこの有様は一代の奇観。一九がいたら盲の川渡り以上の振った図だと膝栗毛の材料にしてしまうところで、見る者呆れて者もいえない程なりき。大味久五郎牛に牽かれて川渡りの段はこれでウシまひにこうりまするが大味大王心の中に其昔秦の始皇帝は松に雨宿りをなしたるためこの松に大夫の位を授けたりとなむ我この牛の労に賞でて何ぞとらせたいが判任官にして遺さそうかなどと思ひしや否や牛の曰くモウこれでご免を蒙ります。
大正4年1月14日 琉球新報
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身売りのさまざま

「インジャ/福地曠昭」の前文を安仁屋政昭さんが書いています。そこから抜粋して引用します。

太平洋戦争の頃まで、沖縄の農村では借財のために身売りをすることが、一般におこなわれてきた。それは、貧農が豪農に従属して農作業に従事することが最も多く、地域によってその形態は多様である。
富農はウェーキ(ウヤキ)とかブギンシャ(分限者)などと呼ばれ、土地や家畜を多く所有していた。開墾地(仕明-セーキ)を広げて資産家になったという意味で仕明持(セーキムチ)ともいった。ウェーキは、みずから農業経営者であり、土地の一部を小作に出したり、模合を主催して農村の高利貸しとしても村落共同体を経済的に支配してきた。
貧農は、このウェーキのもとで小作人となり、さらに借財がかさむとウェーキの家内労働力として使役された。この従属的性格の強いものを、ンジャ(インザ・インジャ)とかンジャックヮと呼んでいた。ところによっては、ヤンチュ(家人)ともヤトゥイ(雇)ともいった。
(略)
一代で元利返済ができない場合には世代をこえて子や孫に引き継がれることもあった。貧農の身売りといわれている最も一般的な形態がこれであった。労働力移動の範囲が狭い地域に限られていた時代には、母村と近隣の農村に身売りをするのが普通であった。移民や県外で稼ぎが一般的になる1920年代(大正末期)以降はシカマ・イリチリの形態は割合としては少なくなったと言えよう。


県史別巻では「シカマ(イリチリ)」の項目にこう書かれています。

ドシル、イリチリは従属的性格が強く、住み込んで次男下男として働き、シカマはそれが軽く、ふつう通いで労務を提供することをいう。これらが明治の土地整理以降も残存し、所によっては第二次大戦前までもあったということは、沖縄農村の後進性を特徴的に示すものの一つであるが、くわしい研究は今後に残されている。なお、ンザ(奴)、あるいはンザックヮ、ンジャックヮ(奴の子)というのは、イリチリやシカマにたいする蔑称である。
沖縄県史別巻「シカマ」 p289


出稼ぎや移民は貧困を救った面もありますね。この豪農による支配は徴兵などでもダメージをうけました。
また地域によって様々な形態があったようですから簡単に一般化することも難しそうです。

ブロック作り

面白いサイトがあったのでご紹介。
58号線の裏へ | Web草思

自分が特に興味を持ったのはこの二つ。
第7回 石の箱から家をつくる
第9回 現代のバラック
戦後の復興の中でCB(コンクリートブロック)の生産がどのように担われていたか、また家屋の建築技術はどのように習得されていったかという話とバラックの話です。

50年代後半当時で、沖縄本島におけるCB工場の数はおよそ180社。つくる一方から売れていくし、質など求められていないのだから、安易なひと儲けを目論んで工場が乱立するのも無理はなかった。家内工業なので工場ひとつにつき従業員は4?5名程度、手動による一日の生産数は200個が限界だった。
http://web.soshisha.com/archives/58/2005_1006.php


書いている方は駒沢敏器さんとおっしゃるようです。話を貫いているのは「沖縄の自意識の獲得」の周縁にあると思いますがそこまで読み込まなくても面白い話です。
城趾を削って作った話も出て来ますが崇元寺の石材を持っていこうとした工事人をあわてて止めたという話もありますから戦後しばらくはそれが普通だったのでしょう。なにせ何もない世界になってしまった中で生きねばならなかったのです。

乱立したブロック製造業者も手作業でやる限りは小さな投資で済むのでスタートしやすい業種だったのでしょう。石灰岩だらけの沖縄ではセメントは原料段階から県内で生産できる貴重なものです。
少し前の人達は気軽にブロックを積み上げて家を増設したり小屋を作ったりするのを当たり前のように行っていました。厳密にいえば建築基準法違反なのですが大々的にやらない限りは黙認していたようにも感じます。

戦前の貧農の家の壁は下手をしたら板で作られてさえいませんでした。そこで望まれるものは手間がかからず丈夫ということでしょう。
沖縄の典型的民家が目指したものは台風で壊れないという目的でそれに最適化された形をしていましたが、戦後同じ目的でより良い新材料があらわれた時に建設された家屋がスラブヤーだったのだと思います。

戦後すぐのバラックは限られた材料でとりあえず暮らすための家屋を建設するための最適解でした。厳密にはツーバイフォーで速成された家屋のみをバラックと呼ぶのかもしれませんが、現在も残っている安普請(失礼)の家屋も同じ目的と限られた条件(金銭、材料)で作られたとりあえずの最適解という意味ではバラックと同じではないかと思います。

伝統的沖縄家屋で想像される琉球村にあるような家になど昔は大部分の人間は住むことは出来なかったはずで、あれには大きな木材と高度な大工の技が必要とされますので庶民には縁遠かったはず。
とすれば耐久性もなく技もいらず限定された諸条件で作られる庶民の家はまさにバラック的ではないかなと思います。問題はその一時しのぎの家屋が金銭的条件で住み替えが出来ないということで本当の問題は「貧困」です。
話がずれてしまいましたがブロック造りのスラブヤーは戦後の人間をだいぶ救ったと思います。

インジャ/福地曠昭

「インジャ/福地 曠昭」という本をご紹介。
福地曠昭さんの本は以前「沖縄の鍛冶屋」を鍛冶屋関係記事で参考にしました。

この本は農村の身売りのことを扱っています。売られた側と雇っていた側の証言が豊富にあり極めて興味深いものです。ただし沖縄本島北部が中心なためこのブログでは取り上げませんが沖縄のことについて興味のある方は必読ではないかと思われます。

このブログではイリチリーについて書いたことがあります。
グダグダ イリチリー
しかし農村に関する限りこの程度の触れ方では浅すぎることを痛感しています。農村と身売りに関して興味のある方はぜひ「インジャ/福地 曠昭」や様々な文献を広範囲にあたって頂きたい。

うろつく癩病患者

明治40年の新聞記事にらい病患者のことがでていきたので引用しておきます。
前にもらい病患者「当地の癩病患者は他人の飲食物を盗み喰ふに人々これを相手にすることを忌みて、大目に許し居る有様なるが」という風に盗み食いを大目に見られていたという記事を引用したことがあります。

今の那覇市場 即ち野菜市場より豆腐市場の付近まで約7・8間の池で其の付近はらい病患者が多く集まり非常に不潔をきはめたるが今は全部埋めたりし後新に家屋を建設したるをもって形は壮大なる変遷を来せしもらい病患者が郡役所付近を徘徊し裸足の婦人が市場を狂ひ廻り喧嘩を惹き越し居る狂態は昔日と少しも変ることなくしかし200年前と同じである。由来記に見える。
明治40年2月14日 琉球新報


東恩名先生の筆によるものではないかと思うのですがどうでしょうか。
しかしらい病患者が歩き回り盗み食いをし、商いのおばさんたちがけんけんがくがくでもめ事を起こしているという那覇市場はいったいなんなんでしょうか(笑)。

履物卸売り

明治33年の琉球新報に履物についての広告があります。

特約一手販売人 安楽静太郎
我々製造の履物類、今般大いに改良いたし安楽静太郎に一手販売委託候につき、同人について御購入、御注文の程奉願候。敬白
若狭町履物製造人一同 長嶺但進 外11人
那覇区字東石門通、履物類卸小売商 安楽喜兵衛
明治33年2月23日 琉球新報


若狭の履物職人は東町石門通りの寄留商人に独占卸することにしたというお知らせですね。
石門通りは狭くて小さな商店が日用品を売っていたそうです。
参考:グダグダ 旧那覇の大通り名
参考:グダグダ チコンキ・蓄音機

天久の屋取 2

天久の屋取の続きです。承前。
グダグダ 天久村の御嶽
グダグダ 安里初等学校
天久の屋取
天久の御嶽の位置を参考に部落の大体の範囲を天久誌の集落図でいい加減にマッピング。
南の部落入り口が「前の池」、北が「西の池」、東が「闘牛場」の範囲です。天久誌の部落図はこの範囲となっていますが真和志民俗地図を見ると東原に集落の記号、そして天久村の御嶽で参考にした「那覇新都心物語」では外れに平野(ひらの)という表示があります。

天久の屋取部落は東原の低湿地帯に沿うように10世帯余りが存在し、東原一帯に水田、現在の泊浄水場北の丘のふもと一帯を開墾し畑作を行っていたという。
天久誌 p91

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


本部落の周辺に屋取ができるという良い例ではないでしょうか。
しかし天久誌の部落図で屋取がまったく触れられていないってのはやはり寄留民との垣根は高かったんだろうなというのを考えさせられます。特に天久は戦後間もなくバラバラになってしまっているのでしょうがないのかもしれませんけども。

参考:天久の地縁 3(平野区)

バクヨー

砂糖仲買人や砂糖委託商人たちは、農村の事情を知りつくした情報屋であり、砂糖取引以外にも日用雑貨の手配から人事の往来まで、仲立ちとしての役割は大きく、次第に農村での不動産取引にもかかわっていった。
沖縄では古くから「バクヨー」と呼ばれる家畜売買媒介業者がいた。博労、または畜商のことである。バクヨーは農家の庭先を巡回して牛・馬・豚などの売買のほか、家畜と家畜、家畜と物資との交換を主な仕事としていた。また、家畜の飼育や家畜の見分け方なども指導した。バクヨーは狭い村落内における手慣れた者の世話仕事であったが近代化の中で人と物との交流が広がってゆくにつれてその活動範囲を広げていった。
ついにはシマを越えて島嶼間の交易となり、奄美諸島を含む南西諸島全域におよぶようになった。これにともなって「バクヨー」という言葉も、仲買人・ブローカー・周旋屋などと同義に用いられるようになった。
なは・女のあしあと p126


バクヨーと関連するのは下のリンク。
グダグダ 砂糖取引と宿小
グダグダ カラシヤー(貸家)
グダグダ 砂糖委託屋 2
砂糖相場と委託屋にからんだ馬車ムチャー、那覇の周辺部に出来はじめた宿小、地方人が経営していた周辺部の貸家、などの世の中の動きに関連して、都市農村間の情報と物資を担う人間の扱う事柄が多角化してゆき、単純な博労だけではないバクヨーになっていったという感じでしょうか。

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