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四流旗(白旗/シルバタ)

四流旗(しりゅうき)は葬式の時にかかげる白い旗です。

白布に墨で経文が書かれ、竹竿に吊るしている。四本作るので四流旗ともいう。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636

シルバタ(白旗)
白布に墨で「仏諸行無情」「法是生滅法」「僧生滅滅己」「宝寂滅為楽」の四種類の経文の書かれたのがあり、竹竿に吊るして野辺送りの時にもつ。四本一組なので四流旗とも呼ばれている。
浦添市史第4巻資料編3 p415


http://naha.cool.ne.jp/nanao320/topics/topics06.htm
四流旗
http://www.city.uruma.lg.jp/1/277.html

書かれているのは涅槃経のようですね。
諸行無常 - Wikipedia
三法印(お釈迦様基本の説法)
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普段着・仕事着

このブログの扱う主な範囲は旧真和志市で、そのほかに旧那覇と周辺区域も扱います。扱わないものは首里士族(屋取を除く)及び首里、そして琉球王朝です。
ようするに庶民史を扱いたいということになります。

旧真和志地域は純農村地帯で百姓と屋取住民・寄留民しかいません。町百姓ではない百姓は土地ごとの特色を除けばどこもあまり変わりがありません。以下浦添市史から引用しますがその辺をわかっていただけると有難いです。

百姓にとっては一日の大半を野良仕事をしているわけだから、男女とも普段着・仕事着の別がなく、晴れ着以外は殆ど仕事着である。持ち合わせも数少なく、晴れ着や外出着であったものを、長年着古してしまったものは普段着におろして、これを「フィージーアチャー」といい、さらにそれがくたびれてくると、すり切れている部分を繕って仕事着にし、これを「フクタージン」という。
封建時代には、士族階級はあまり活動的ではないので、衣類の形態も、着丈が長く、袖もウフスディーという広袖の優雅なものであったが、百姓平民は活動的な仕立てであった。昭和初期まで琉装の名残があり、農民はたとえ晴れ着であっても、袖丈や袖幅、着丈も短く、それは働くことを常とした人々の、生活の機能性から生まれた形態であろう。
はじめから仕事着としてつくる場合もあったが、それは大方が自家製のアラバサーといわれる粗芭蕉で、幹の外皮からとれる太い糸で織った布である。その他、残り裂をはぎ合わせて仕立てた着物もあったが、これをチジャーハジャージンという。
大正から昭和初期に書けて、日本本土から安物の機械織反物が大量に移入され、那覇の東町(ヌヌマチ)に出回った。それは深めの籠に立てて売っていたので、バーキヌヌと呼ばれた。明治末期までは自給自足をしていた衣料も、忙しい農民の普段着は安く手間のかからないバーキヌヌにとって変わった。しかしそれは、安かろう悪かろうの例にもれずうすっぺらで長持ちしない布であったので、晴れ着などの良いものは自分で織ったり、またゆとりのある家では特別に織ってもらったりした。
浦添市史第4巻資料編3 p181、182(省略編集)


戦前の市場を撮った写真などではつんつるてんの着物を着ている人がいますがあれが農民の普段着です。那覇の市場は多く那覇士族の妻女が商いをしていますので違いがあります。

戦後の楽団

1946年12月2日、具志川の米軍キャンプ630部隊で沖縄人演奏家による戦後初めての洋楽演奏会が催された。部隊長ローズ大佐の希望によるクリスマス祝賀会「琉米親善音楽会」で、ピアノ、クラリネット、トロンボーン、サキソホーンによる合奏が兼村寛俊、渡久地政一、田場盛徳によって演奏された。
その後1947年9月には新垣絃次郎(又吉盛郎)を団長とする「南の星」楽団が結成され、沖縄全土を巡回して好評を博する。
なは・女のあしあと(戦後編) p386


沖縄の戦後文化の一つとしてジャズがあります。主流だったのはジャズときいて大抵の人が想像するようなジャズではなく、ポップス・ダンスミュージックとしてのビッグバンドジャズです。即興のイメージと違ってビッグバンドはアレンジがされているため基本的に譜面の音楽です。
時代が過ぎてしまえばそれらはたんなる懐古ポップスでしかなく、当時の人間は現代に通用するような技術もないため復帰後はのきなみ食いっぱぐれました。

一時期スターだった連中の天狗ぶりはすごいものがあったようで、うちの親戚連中があつまったときには色々な話がでてきました。おかげで、コザのロックやキャバレーなど米軍のお陰で儲った連中にはろくな奴がいないという偏見を自分は持っています(笑)。
その当時現役だった人間というのは現在老人になっていて、現在演奏している人間で全盛期の基地内での演奏を経験した人間はもうあまりいないと思われます。

もう昔の話なのでいいかと思いますがへたくそも山ほどいます(いました)。あれで食えたというのはバブルでしかなかったという証拠のようなものでしょう。
ただし全国レベルの人間もいたのも確かです。
有名なあの人もひどかったな...

参考:"南の星"楽団" - Google 検索

南條みよし/南条みよし(安村ヨシ)

沖縄の地でバレエ・洋舞の研究所が開かれたのは戦前である。来沖した石井漠舞踊団公演に魅せられた南條ミヨシ(安村ヨシ)は、周囲の反対を押し切って名古屋の南條宏(本名・高江洲康宏)に内弟子としてバレエを三年間師事した。帰省後は1937年(昭和12)年から幼稚園や首里の自宅で指導にあたったが、戦争が近づいてくると「バレエ」という言葉を使うことも禁止され、逆に軍歌に振り付けをするようになったという。
1950(昭和25)年には大道の婦連会館の隣に、1958年には久茂地に研究所を開き、57年には首里とあわせて三つの研究所の合同の発表会を行うまでになった。
1962年の8月には「南條舞踊賞」が南條みよしに贈られ、那覇劇場で合同発表会を開き、南條ゆり子、南條喜久子、富原千智、長崎佐世、高良幸子ら、現在の沖縄のバレエ・洋舞界を牽引するダンサー・指導者たちが一堂に会した。
なは・女のあしあと(戦後編) p395〜397(抜粋引用編集)


現在のバレエ(とフラメンコ)の関係者は南條みよしさんのお弟子さんが多いということですね。
当初「南条」と表記していたのを「南條」に訂正したのですが両方の表記があるようです。どちらが正しいのかというのがわかりませんのでその旨ご了承下さい。

【追記】「私の戦後史 第8集」に「南条みよし」さんの自伝があり、そこからの情報を追記します。
ここからは冒頭の「なは・女のあしあと」につながります。

1915(大正4)年、泉崎生、父平安座朝輔(警察官)、母マカト、一男三女の長女。祖父母が甲辰小の門のとなりで文房具屋をしており、そこで生まれる。
警察官の父のもと毎年転校するような暮らしを送る。1933(昭和8)年二高女卒業、西本町の島田医院の薬局に勤め看護婦の勉強をしていたが、旭館で行われた石井漠公演に魅せられ勤務後一人で踊りの練習を始める。新聞記事で南条君子の写真を見て県出身ということを知り内弟子希望の手紙を送る。


余談として改姓のことなど。

しばらくして私の名前の「平安座というのは、読みづらく、朝鮮の名前に似ているから変えましょう」ということになり、“平山”に変わりました。
私の戦後史 第8集 p256

勢理客の水田

浦添の勢理客から安謝を見た写真です。中央に安謝橋があり、手前は水田になっているようです。

この一帯を勢理客城門原と勢理客立山原と呼んでいます。
浦添
対岸の安謝と同じように川の流れが堆積して陸地化した低地です。

浦添市史に昭和11年頃おこなわれた土地改良事業についての記述がありましたので引用したいと思います。

安謝橋側の勢理客城門原・立山原の護岸は山石積みであったので、毎年潮害を受け不毛地になっていた。安和良盛村長は県耕地課に交渉し、不毛地の村有地三万坪余を土地改良事業によって水田地帯にするように願った。しかし補助金は護岸工事と水路工事費しかなく悩んだが、村議会に諮り、区長会で話し合ったら全員実現をさせようということになり、工事費は補助金で充当し、不足分は労賃で負担することになった。
それで整地事業は各字の戸数に応じて大中小にわけ割当された。各字では割当された区域を共同作業で整地作業に取り組み、鍬で掘り起しモッコでかつぎ整地に従事した。(略)護岸工事において、潮水害防止のため自由開閉扉をつけた水門を設けるとともに、悪水路を護岸内側に設けた。また水利としては、小湾川の川口に井堰を設け、その貯水池から用水路で田圃に流れるようにした。水田は一反歩単位に区画整理された。
広大な不毛地が美田と化し、浦添村で一番大きい水田地帯となった。
浦添市史第4巻資料編3 p74(省略編集)

人殺岩(安謝)

戦前の漁業権の範囲です。右図は浦添市史を参考に作成しました。
左は以前作ったもので、右は今回1945年の空撮写真の上に書き入れたものです。右図は干瀬を意識して書き入れてあります(左では意識していません)。
元の図も概略的なもので、この二つの図を作った自分もいい加減なのでこのブログでの図などはこの程度の正確さとご了解くださいませ。m(_ _)m

浦添市史から引用します。

小湾の地先専用漁業権は漁場位置およびその区域を次のように定めている。即ち、漁場位置は沖縄県中頭郡浦添村字小湾地先である。基点甲は字仲西と字小湾の境界であり、乙は字小湾と字勢理客の境界である。基点丙は那覇市安謝即ち、当時の島尻郡真和志村にある人殺岩であり、現在でも形は変わっているものの現存しているという。この基点と沖にあるイ、ロ、ハの三点を各々に結んだものが図の小湾の漁場区域となるわけである。
浦添市史第4巻資料編3 p101、102


イロハの点は描きいれてありませんし、小湾の位置や甲乙丙の各点の位置も検証してありません。ここで着目したいのは那覇市安謝、当時の真和志村安謝にあった人殺岩です。安謝部落から現在の58号線をこえた海側あたりにあったようなのですが、この辺には義理地原があります。そこらへんからの名称なんだろうなと思いますがそれ以上の情報はありませんし、例の刑場の位置も実際よくわかりません。
そしてオチも結論もありません。

那覇への奉公

浦添市史の屋富祖の項目に奉公という話があります。

那覇の銀行山城、弁護士の伊礼肇、堂前の岸本、屋富祖医院(泊)、元順医院(西本町)に一ヶ月7円くらいで奉公に出るのもいた。
浦添市史第4巻資料編3 p154


ほとんどが新興の金持ちなのが面白いです。

国場の骨買い・古布買い

浦添は畜産の盛んな地域であったようです。
浦添市史資料編122ページ、昭和9年の「浦添村家畜数調」という表によると、牛約840頭、馬約950頭、豚約2670頭、山羊約2570頭と結構な規模です。

戦前の浦添村は畜産のとても盛んな村で、面目躍如たるものがあった。その背景を考えてみると、
農耕地が広くそして資料になる青草が絶えることはなく、さとうきびのしょう頭部や甘藷のカズラ等の粗飼料が豊富で手軽にはいるのでほとんどの農家が牛・馬・山羊を飼育し、家畜増産の基盤は確立していた。
田畑の耕作や製糖場のキビの圧搾には地区力が大いに利用されたが、昭和16年頃から発動機工場にかわったのでかつての役労牛は肉牛としての供給地となり、阪神航路の船の出る毎に肉牛を移出するようになった。オートバイ乗りの牛馬商の渡慶次某(喜舎場小、天久在)が農民相手に庭先取引をしていた。
牛馬の増産奨励にもなり、唯一の農村娯楽としての闘牛が、牧港、伊祖、城間、宮城、小湾の各字で盛んに行われた。安波茶馬場や隣村で競馬も行われたので馬の頭数もふえていった。
浦添市史第4巻資料編3 p123(省略抜粋編集)


輸出される肉牛の数は沖縄県史等でも確認できます。一方乳牛は那覇と同じくあまり普及しなかったようです。
戦後はなぜか肉目的の兎飼育ブームがあったようで家畜の項目に兎という項目があったりします(たしかみなと村など)。浦添市史の123ページには兎で失敗したエピソードにも触れられています。あと沖縄タイムスフォトギャラリーには「うさぎブーム」という1947年撮影の写真があります。

国場の生活史証言で骨を肥料目的で買うという話がありますが、浦添市史にも売った証言が散見されます。

骨小コーヤーが国場・仲井真辺りから来たので、ウヮシティ(豚捨て)ガマに貯めて売ったとのことである。
仲間 p142
魚は糸満の人が売りに来たし、スクガラス売りは泊から、フクターコーヤー(ボロ布買い)、フニヒルヤー(豚の骨買い)は国場・仲井真から来た。
安波茶 p144
国場・仲井真辺りからは「骨小、フクターヤ、ネーミソーラニ」と声をかけ、マッチと交換した。
前田 p145
浦添市史第4巻資料編3(抜粋省略)

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