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伊波冬子と四人の女

伊波と冬子の生活は、あくまで同居生活であり、戸籍上の妻ではないので、一切の公式の場所、例えば結婚式など招待があっても断っていた。しかし伊波の研究生活はいよいよあぶらが乗り、冬子もまた学者の妻として献身的な働きをする。(略)私[※比嘉美津子]もそのころ同居していたが、学者の妻として立派だと思った。
しかし、冬子には少し病的なところがあった、月末、生活が不如意になるとヒステリーを起こす。これは強度のものではなく不機嫌になり、ものを言っても返事をしない。身なりもだらっとして髪も乱れてくる。その姿からヒスだとわかる。私はある時「姉さんは良妻悪妻プラスマイナス賢妻だ」と皮肉ったこともある。冬子と私の関係は、私の母方の従兄弟で、私が子供のころは「メーダグヮーのカマルー姉さん」と呼んでいた。
「伊波普猷をめぐる5人の女性たち」の四人の方々から、冬子は至って評判が良くない。ある方が「伊波先生は私と結婚していたら、金には不自由させなかった」と。
時代を彩った女たち p122(省略と抜粋)


上の文を書いた比嘉美津子は「素顔の伊波普猷」の著者で、著書では東京の小石川で何年か同居した伊波と冬子の様子を書いています。
不仲は嫉妬かもしれませんね...
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屋比久孟吉

屋比久孟吉
1900(明治13)年佐敷村生。1939年ハワイミッションアカデミスクール中退。ハワイにおいて20年近く写真業に専念する。戦後49年には戦火で物資の乏しかった沖縄に山羊を輸送。51年、キリスト・セブンスデー開拓伝道のため帰郷。そのまま沖縄にずっと居住するようになる。53年飲料水製造業を思い立ち、ベストソーダ株式会社を創立、取締役社長となる。
現代沖縄三千人より抜粋


ある年代の人には懐かしいベストソーダですが検索してみると情報はあるもんですね。

1953年10月13日那覇市5区17組(現在のどこだろう)で製造販売を開始し、当時は1本7円でその後5円に値下がりし、他のものよりも低価格ということで人気を博し、昭和50年頃まで製造されていて
http://www.cosmos.ne.jp/~norioa/bestsoda.htm


5区17組は崇元寺の真向かい、橋をわたって左手です。
参考:グダグダ 戦後の那覇の区
那覇5区

[余談]屋比久孟吉の姉の子に戦前からクリスチャンであった津嘉山澄子という人がいて、屋比久孟吉の影響を受けセブンスデーに改宗してしまいます。

【追記】
戦後ハワイから引き揚げて来た屋比久孟吉が1953(昭和28)年11月、崇元寺の一角で操業を開始、55年には民間清涼飲料水業者として初めて米軍向け販売の免許を取得、56年浦添市勢理客に工場を移転、61年には株式会社に改め、最盛期の70年頃には県内シェア17%、従業員150人を擁した。1本5セントの安さとソフトな味に人気があった。復帰後の情勢の変化もあって経営不振に陥り79年休業。

久高将正

久高将正
1888(明治21)年、東村生。1922(大正12)年那覇市美栄橋町に薪炭木材店をはじめ、以来木材業一筋に生きる。日支事変、大東亜戦争と相次ぐ戦火を経て1949年には久高木材合資会社を設立し社長に就任する。
現代沖縄三千人より抜粋


山原の人なのかなとも思いますが東村は1923(大正12)年に久志村から独立していたりしますのでよくわかりません。
参考:東村 - Wikipedia
それはともかく大正12年には美栄橋に薪炭木材を扱う店舗を持っていますが、戦前の久茂地川河口両岸は材木店や製材所が多数あり、山原から荷揚げされる薪炭の荷揚げ場所になっています。
当間モウシさんもそうなのですが新しく埋め立てられた場所に集中して進出しています。

戦後は国際通りの中央部付近に久高木材はあります。図はゼンリン69年度版を参考にしています。
当時の周辺はこんな感じ。
むつみ橋付近図
戦前相当の牧志民俗地図をみると現在の三越の後方は畑で住居もほとんどなく、久高という名前も見えません。牧志はグランドオリオンからの道と牧志ウガンの間が集落で、道向こうの三越からホテル一帯にはほとんど住居はありません。
あとそういえば久高材木店は久茂地川沿いにも店舗があったような気がします。

結論は、戦後立ち入り禁止になった区域(美栄橋等)で戦前自営業やっていた人のうち戦後すぐに再起した人は最初に開放された場所(牧志など)ですばやく営業しはじめた人がいるよね、久高さんもそういう人だったんじゃないかね、ということです。

長田紀秀・饒平名紀順

長田紀秀(饒平名)
善興堂医院
1899(明治12)年那覇市に生まれる。饒平名紀順(1870-1937)の長男。1919年大阪医科大卒、1920〜23年まで大阪赤十字社病院産婦人科に勤務、23年帰郷して沖縄県立病院婦人科部長(23〜25年)したのち1926年那覇市で医院を開業した。
戦後1946年にコザ中央病院院長、1951年から那覇市で善興堂医院を開設、診療にあたっている。
本籍 那覇市上之蔵町一丁目
現代沖縄人物三千人/沖縄タイムス社(1966)(省略と抜粋、一部追記)

※善興堂医院と善興堂病院のどちらであったかについて(自分は)あやふやです。下の船越義彰さんの文では病院、「医師 仲地紀仁」でも病院になっています。
龍界寺小路・善興寺坂
追記(2011.04.29)
饒平名紀順(1870-1937)長田紀通のひ孫。善興堂病院院主。
饒平名紀慎(1864-1908)長田紀通の孫。
「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」p42


千原繁子さんもそうですが、長田紀秀さんも51年に那覇で自由開業できるようになり戻られているのですね。
船越義彰さんの文章で戦前の善興堂病院について触れられている箇所があります。

善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
なはわらび行状記 p23、24

千原繁子

大正8年、東京女子医専を卒業後、すぐに医師試験に合格した。卒業生70余人中15人が合格した。数え年22歳。東京駿河台の杏雲堂病院に勤務、細菌学、呼吸器科、小児科を研究した。
昭和3年帰郷、28歳で那覇市役所隣で小児科[千原小児科医院]を開業した。一番近いところの内科小児科のS医師が「女子供が開業するそうだが、夜、医者は辻に行くから好都合だ」と言ったそうで、私は出鼻をくじかれた。(略)
S医師のいったことは現実となって、毎夜当番医をやったことになる。しかし、それを私は甘んじて誇りに思っていた。
---
話は前後するが、私が開業する前に善興堂には、婦人科医は長田紀秀先生と仲吉先生2人で4、50人が満員。また元順病院は金城紀光先生を院長にいただいて浜松、島袋、仲地紀晃、紀彦先生がおり、外科病院としては沖縄一であったのに、数年して善興堂が分裂、そして元順の浜松、島袋先生が出て、それぞれ個人開業した。
その他に金城清松先生のところの堀口先生も個人経営となった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)


千原繁子さんは沖縄の女医第一号です。明治31年那覇生、戦後は昭和27年に松尾に小児科を開業、そして昭和32年に松山町に移転し復帰まで医師をされていました。
しかしさらっと怖いことも書いてあるんですよね。以下引用しますがもう誰にもわからないことでしょう。

そのうち二年間にS医師、H内科新開業の小児科医のH氏が相次いでパントポン常習者の噂で亡くなった。S医師の言動がどうも腑に落ちない点があったのは、ああそれだったのかと思い当たった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)


【追記】千原繁子さんの旧姓は渡嘉敷であったようです。
那覇市出身・渡嘉敷繁子は、東京女子医学専門学校に学び、医師国家試験に合格。東京在任中に千原成梧医師と結婚。千原繁子となった彼女は、昭和3年に帰郷して夫君と「千原医院」を開業。
http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/244.html


那覇市史から。
「球陽座」が盛んなころ、東京留学中の安里成達、成梧(後に千原と改姓)兄弟が、東京から帰省し
那覇市史資料編第2巻 中の7 P719(抜粋)

最新那覇市地図

戦後の区
戦後しばらく那覇市に置かれていた「区」です。この区の範囲を特定するのに「最新那覇市地図」というのを参考にしました。

手元には2種類あり、一つは県立図書館所蔵の地図のコピー、一つは那覇市の那覇市史ニュース(だったかな?)に載せられていたものからコピーしたものです。
県のものは「伊藤勝一」さんの提供によるもの、那覇市のものは昭和26年6月の那覇地図で壷屋の「浜松昭」さんの寄贈によるものです。
見た目はほぼ同じ手書きを印刷した地図ですが少し違いがあります。

なにが違うかといえば県のものには「珊瑚座」「オリオン座」が存在し、その前に道が通っていること(ほかにも違いはあります)。
検索してみると52年頃に建設されたようです。

キネ探 沖縄映画興行伝説 P3(1952〜1953) ※オリオン座
キネ探 沖縄映画興行伝説 P3(1952〜1953) ※珊瑚座
珊瑚座:桜坂劇場に繋がる想いと歴史:桜坂劇場 劇場課日記
桜坂 (那覇市) - Wikipedia
桜坂オリオン17日に閉館 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

那覇市の地図は(掲載された本に)昭和26年のものと書かれていますので51年頃、県のものは映画館建設後のものなので52年以降の変化を改訂して発行されたものなんでしょう。

マルクニ

丸国の写真です。
無断借用しております(すみません)。

神里原1952
1952年。
http://tad.ymak.jp/?eid=545206
神里原1962
1962年。遠くにビートルが見えますね。
http://tad.ymak.jp/?eid=539254

丸国マーケット

丸国マーケットです。

戦後闇市の中心点のような場所ですが現在は宿屋になっているようで時代を感じます。画像はGoogleMapからの切り出しですがビル名にご注目いただきたい。三つ並んだビルが、丸国マーケット、なみさと、民衆ビルになっています。
真ん中のなみさとはわりあい最近そうなったものだと記憶しています。

51年の土地評価続きでは昭和26年の「最新那覇市地図」と那覇市史 資料編第3巻の1の「割当土地賃貸料調査票」で戦後すぐの繁華街がどうだったのかを見てみました(結局なにもわからなかったんですが)。
そこで「民衆百貨店より丸国マーケット十字路及西方へ右折し朝日商会付近並に同商店向かい小路に入り安次嶺商店まで通りに面せる両側」という場所がわりあい高評価でしたが「民衆百貨店」というのがどこだかはっきりしませんでした。とりあえず図はこのように作図しました。

この図での民衆百貨店は当時入手していた「最新那覇市地図」(仮にA)をもとにして推定したものですが、最近入手した「最新那覇市地図」(B)は細部が違っています。Aは丸国マーケット一帯が空白ですが、Bには丸国マーケットが存在していて最初の図のように三つ建物が並んでいます。その三つの建物の名前は、「丸口(ママ)・三共・民衆」となっています(三共は読み取りにくいので違うかもしれません)。

A・Bの地図は細かい違いが他にもあり時期の違いもあると思われます。ただし道などはほぼ同じ手書きでどちらかの図に変更を加えたものだと思われます。
※Bには現在の桜坂琉映の位置にオリオン座と珊瑚座があるがAには無いなど
個人的にはBの方が後だろうなと思うのですがちゃんと調べてみないことにはわかりません。ちなみにAは那覇市所有でBは県立図書館所蔵です。

めんどくさいです...
※追記しました(2011.04.23)

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