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山里永吉

「沖縄を語る 金城芳子対談集」という本がありますがその中に山里永吉のことがすこしでてきます。
とりあえず山里永吉のプロフィール。

山里永吉
1902(明治35)年-1989(平成5)年 
大正-昭和時代の画家、作家。
那覇生まれ。田河水泡,村山知義と交遊、「マヴォ」同人となる。昭和2年郷里の沖縄にかえり,脚本や新聞小説をかく。戦後は琉球博物館長、琉球芸能連盟会長。日本美術学校中退。
脚本に「首里城明渡し」,著作に「沖縄人の沖縄」など。

http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E9%87%8C%E6%B0%B8%E5%90%89
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-43233-storytopic-121.html


辻に貸家を作ってジュリからお家賃をせしめる。これは収入の最たるもの。辻町1丁目1番地の私[金城芳子]の家一帯は山里永吉の家の貸家でした。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112


辻は左上の紫の一帯、一丁目は端道の側です。
山里永吉の家は上之蔵の丸山漆器店のようで、那覇のえーきんちゅの暮らしがうかがえます。

関連:グダグダ(β) 山里永吉関連
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豚血

漆器に使われていた豚血について面白かったのでメモしておきます。

表面の傷や亀裂をニービ(小禄砂岩)と生漆を混ぜたニービ下地で埋めます。「刻素(こくそ)」という作業です。ニービは砂より粒が細かく土よりは粗いので、デイゴなど目の粗い木に塗るのに丁度よいのです。
そのあとクチャ(島尻泥岩)粉と生漆を混ぜたクチャ下地を塗ります。昔は豚の血と桐油、ニービ、クチャを混ぜた豚血下地が使われていました。塗り終ったら乾燥させます。
http://kougeihin.jp/crafts/introduction/lacquer/2889?m=pd

琉球王朝時代に製作された漆器は漆下地が主である。豚血下地は廃藩置県以降、民間工房で全般的に漆器製作を行うようになり、盛んに用いられるようになったといわれている。ただし、王朝時代の作品であっても、19世紀以降の遺品については豚血下地の例が見られることが指摘されている。
沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃


時期的には19世紀から復帰あたりまで豚血下地は使われていたようです。
工芸については範囲外なので触れませんが、文中にある生活との関わりにおもしろいものがありますので抜粋してみます。また技法については1956〜70年代に紅房で勤務していた下地職人とA社の職人の証言だそうです。
下の引用すべて「よのつぢ」に掲載された「沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃」からの抜粋です。参考文献などを含めて全文読まないとわからないとこがあるかと思いますので興味のある方は是非原文にあたって頂きたい。

また、戦前に若狭町で手作りのクチャが1個1銭で販売されていたことや、子供達が毎朝豚血をバケツを持って買いに行く風景が見られた、という技術分析以外の記述が見られる。 p48(31)

クチャ
工房近くの工事現場や沖縄本島南部方面の山から採取する。採取したクチャは天日で干す。それを砕いて水を張ったバケツに入れ、暫く置いて沈殿させ、上澄み液は捨てる。下に沈降したクチャを布で濾す。布濾しを4〜5回繰り返す。最後にクチャを布袋にいれておもしをかけ、多少堅くなったら、適量ずつ饅頭のような形に整え、乾かす。出来上がったものはジーグと呼んでいた。出来上がったジーグを購入していた時期もある。 p49(30)

豚血
毎朝8時頃安謝の屠殺場で豚血を購入した。洗面器の八分程度の分量の豚血の塊を15個程度購入する。入りたての見習い職人の役目であった。
購入した豚血は豆腐のように固まった状態である。それをワラで30分ほど揉んでサラサラの状態にする。一度藁でもむと凝固することはなかった。そして布で濾す。濾した豚血はビンなどに移す。この作業は下地調合を担当する職人が行ったが、担当者が休みの場合は若手の下地職人が行った。豚血をもんだ後のワラは、工房敷地内の地中に埋めた。
また、A社では、毎朝7時頃から作業前の準備を始め、9時頃なると那覇公設市場の肉屋に豚血を取りに行った。豚血を取りに行くのは見習い職人の役目だった。豚血の購入先は特定の肉屋で、会社が契約をしていた。料理に使用する販売用豚血は塩を混ぜるため、塩を混ぜない豚血を取り置きしてもらっていた。 p49、50(30、29)
沖縄の豚血下地について/伊禮綾乃 (省略と抜粋)


戦前クチャは洗髪につかっていたらしいですし、豚血は食べていますから身近ではありますね。

のーまんじゅう

那覇市史にも項目がありますがWikipediaに書かれている製法と同じです。

材料は小麦粉を発酵させ(イースト菌を用いる)、粒あんを入れ月桃(サンニン)の葉で約一時間蒸す。仕上げに食紅で「の」の字を書く。
のー饅頭 - Wikipedia


那覇市史にはまんじゅうの項目にこう書かれています。

白のままや黒胡麻をちらしたものは法事用で、他は祝儀用である。葬式には白を使い、十三年忌以下の法事には、上流では表面に黒胡麻を散らした。また二十五年忌以上の法事は精進料理以外は祝儀同様にするのでまんじゅうも三ヶ所に芥子の実を円形に付けたものや、衣の材料に赤色をつけ花形に抜き表面に貼付けた花饅頭を用いた。 下流は赤の輪形(の字に書く)を表面に書いた。後世の“の饅頭”と呼ばれ祝儀には必ず用い、入学祝い、進学祝いには親戚知人近隣にもくばられた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p324


のーまんじゅうの“の”はもともと略式の祝儀用だったということですね。
菓子類の製造も廃藩置県以前は首里・那覇の町方のみのようです。大和菓子も同じように廃藩置県後にメリケン粉や白糖が豊富に入ってくるようになってから作られました。
※コメントで熨斗の「の」、めでたいの「め」が繁忙期の作業で「の」になってしまったという説もあることを教えていただきました。ありがとうございます。

琉球には営業としての食品加工業は、酒造以外になく自家製造が主であった。ただし王府御用の職人はいた。廃藩置県後、彼らは職を失ったので、営業したのが最初である。
---
昔、菓子があったのは首里・那覇の町方のみで、田舎では餅と揚げ物以外に菓子らしいものはなく、納税して余った黒砂糖を食べる程度であった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p321 (省略と抜粋)


新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美でとりあげた新嘉喜貴美(旧姓久場)さんが西本町出身で、もともと御用達の菓子屋だったとうろおぼえをしています。

消防と防火

那覇市消防本部に明治からの消防の歴史がありました。

消防本部のあゆみ1
http://www.city.naha.okinawa.jp/fire/soumuka/11_1.html


近世の防火体制に関しては「よのつぢ」の四号に「近世琉球王国の防火」というのがあります。
それをみると、余地、消防用水(水蔵・井戸・埋甕)、建物の不燃化などがおこなわれており、総与頭職という職もあって一応消防組織もあったようです。

沖縄県史物語に師範学校生の証言があります。

それが60年後の今日、さまざまな思い出とともに記憶に残っているのは、われわれ首里の師範学校生は直ちに寄宿舎こぞって、消防ポンプを荷車に載せた消防車を引いたり押したりして火事現場に馳せ参じて大活動をしたからでした。
[※大正の大火のこと]
---
師範の寄宿舎で月に一回か二ヶ月に一回くらい真夜中にふいに不時呼集のラッパが鳴り響いて、直ちに整列して那覇間を往復して、不時にそなえて自己訓練をしておりました。いつあるかいつあるかと正月を待つように心待ちして勉強していたことはうそではありません。不時呼集で坂下を夜十二時ごろ降りて、大道の高等女学校の前を通るときなど、女学生よ目を覚まして聞けといわんばかりに、前述の寮歌「見よ城岳の一角に、空をかすめてそそりたつ」の歌声をはりあげたものでした。
沖縄県史物語 p274、275(抜粋と省略)


当時の新聞記事には、那覇の大火事の際に師範学校生が大活躍したことが取り上げられています。

米次源吉

米次源吉
生没年不詳、鹿児島生。1894(明治28)年頃寄留して米次商店を開設、漆器商として活動する。1895(明治28)年に米次漆器工場を創立し、沖縄的な特色のある漆器の製造・販売に従事する。
1910(明治43)年には27名、1916(大正5)年には本工場の他、各地に分工場を所有し、100余名の職工を使用して一ヶ月に約3200〜3300円の製品を県外に輸出するにいたった。
近代沖縄の寄留商人より抜粋


太田朝敷は「今日では米次漆器店といえば、県の内外に知られた県下一流の漆器店で、随って米次翁はこの特産に対する功労者である(沖縄県政50年/1932年出版)」といっています。
米次源吉から少し時代は下りますが昭和初め頃には紅房への動きがあります。

昭和初期、沖縄県は「ソテツ地獄」とよばれた経済不況対策の一環として、県工芸指導所を立ち上げた。漆器部門の指導者として生駒宏が富山県から招かれた。(略)県外から優秀な若手デザイナーを呼び寄せ、近代的な感覚の製品開発に取り組んだ。その結果県外からの引き合いも出て来た。
それに対し、伝統的な漆器業者は民業圧迫だと騒ぎ出し、若狭町の街角に「イコマ(生駒)ではなく、悪魔だ」との張り紙をする一方、県や県議会にまで押し掛けた。
昭和6(1931)年、生駒は既存業者を排斥し、沖縄の漆器に新しい息吹を与えることを決意し「沖縄漆器工芸組合・紅房」を発足させた。そこには柏崎英助、小池岩太郎らの若手の有望な人材も加わり、現代にも通用する新しいデザインが次々と生まれ、中央でも脚光を浴びるようになった。
笑う!うちなー人物記 p193(編集と引用)


昭和期相当の「わかさ民俗地図」には若狭町に漆器関連の工場があるようですがこの工場がどこのものだったのかは書かれていません。
県史とかの工芸史を調べればわかるかとは思いますが調べておりません...
関連:グダグダ 紅房
関連:グダグダ 漆器関係年表

漆器や焼き物の発展・近代化のプロセスを自分は追えていません。
壷屋の焼き物は近年「古典焼」など多方面からの検証などがすすんでいるのですが、漆器もそういった研究があるのかもしれません(が未読)。浦添の「よのつぢ」とかで漆器についての報告がありますね。
芸術や工芸に関する報告などは技術面や影響など門外漢からはなかなか読みにくいもんがあります。


ここは素人のノート代わりの個人まとめなので、必読書を読んでいない故の間抜けな遠回りや間違い及び勘違いはふつーにあります(のでご注意)。

若松太兵衛

若松太兵衛
1859(安政6)年鹿児島生。若松家は仙台から鹿児島で蛭子屋商店(米穀商)を開設していて、太兵衛は兄の吉次とともに20歳代の前半まで家業に従事していた。1885(明治18)年寄留し、ただちに那覇市店()を開設、鹿児島の本店を経営する兄とタイアップしながら寄留商人の間で頭角を現す。
没年不詳。


1900(明治33)年の琉球新報の「寄留商人案内」によると、店は海江田丑之助商店の隣で、鹿児島の本店も海江田丑之助の本店隣のようです。
海江田商店は西本町2丁目なので蛭子屋商店那覇支店もそのあたりということですね。
参考:海江田丑之助




関係あるのかないのかわかりませんが、若松卸問屋街というのがあります(関係ないとは思うんですが)。あそこは国際通りの卸問屋が移転してできたとこで比較的あたらしいのですが、なぜ若松という名前なのかわかりません。
もともと塩田のそばの土地を造成して現在の形になっています。行政が企画して移転したと思いますので若松の名前も行政がつけたのかもしれませんが縁起の良い名前なのかな?

若松 ---> 狭 +

かなえ亭(香那恵ホテル)

かなえ亭
那覇市のサイトに「かなえ亭」の写真がありました。もともとは、「沖縄主要地・主要商工年鑑」(1951年版)第一区・表より参照/(1950)に掲載されていたもののようです。
この「かなえ亭」は那覇1区14組にあった大城ウシさんの「香那恵ホテル」と同じものではないかと思います。前に「琉球人事興信録(昭和25)」から大城さんの項目を引用してあります。

大城ウシ
香那恵ホテル経営主
那覇1区14組
その名もゆかしい香那恵ホテルを経営している人は幻燈まどろみ蛇味の音さんざめく往時の辻町の一角に於いて幾多の名妓をかかえ隆々たる名望聞こえた新雲楼のお主大城ウシさんである。
グダグダ 大城ウシ(香那恵ホテル)

戦後の区那覇1区
ちなみに大城さんが主をしていた新雲楼(染屋小)は、クシミチと天使館小路の角にありました。
1区14組は国際通りから平和通りに入るあたりです。なので写真の後方にうつっている丘は現在の希望ヶ丘公園だと思われます。

51年頃の図。
市場本通り(平和館通り)

冒頭の写真の高解像度版。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/平和通りの料亭 かなえ亭
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1708

しょうゆ・酢

さしみで庶民階級にはしょうゆは普及していないと書きました。

しょうゆ
しょうゆは富裕階級は自分で作っていたが、庶民がしょうゆを使うようになったのは明治以降であった。
農村地域や辻町では、みそがふるくなると上に汁が出るので、それをくんでしょうゆの変わりに使った。また、辻町では、大豆をひき、麦をいって麹を作り、水、塩を加えてしょうゆをつくっていた。

明治時代の自家製の酢の作り方は次のようであった、甘蔗の汁または黒糖の煮汁をかめの中に入れて放置して作った。酢のことをアマジャキまたは、シーといった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p195


昭和初期想定の民俗地図をみるとしょうゆ屋もあります。
富裕層と辻で作っていたということは高級料理には使っていたということでしょうか。

辻町では、客相手に高級料理が作られていたせいか、鰹節、ソーキ骨、とりガラ、グーヤーブニなど、ぜいたくに使ってだしをとるにも気を配ったという。また、庶民の間では、かまばこに塩で味付けし、固めに作り陰干しして、鰹節のように削って作った。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p196

参考:ダシカマボコ

那覇市史には調味料として、塩、みそ、しょうゆ、酢、さとう、しょうが、胡椒、唐辛子、ひはつもどき(ヒファチ)、鰹節、干小魚があげられています。

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